手を開く
その日は朝から憂鬱な雨が降り続いていた。
まだ外出する気分にはなれなかったが空腹には抗えず、渋々玄関の引き戸を開ける。
まだ昼過ぎなのに薄暗く湿った景色は俺の気分そのままだ。
濡れたアスファルトを踏みしめると、傘に当たる雨音と無造作にポケットに突っ込まれた小銭がまるで俺を皮肉るように軽快なリズムを刻んでいる。
「……これから俺はどうしたら……クソッ──うわっ!」
水溜りに八つ当たりしたら、跳ねた飛沫が顔までかかった。
あまりの馬鹿馬鹿しさに自嘲すら覚える。
「ああくそっ、腹減ってるから余計にイラつくんだなきっと。とっとと何か食おう」
俺は余計な感情を振りほどくように、小走りに狭い路地を抜けた。
角を曲がって大通りへ出ると、錆びたトタン小屋が併設されたバス停が見えてくる。
「あれ? 珍しいな」
そこに人影を認め、俺は慌てて減速する。
退屈を持て余すように立っていたのは、白いワンピースにベースボールキャップを被り、長い茶髪が腰まで伸びた見たことのない少女だ。
別に初見の人がバスを待っていてもなにも不思議ではないが、この時間帯は運行がほとんど無く次まで一時間以上空いているはず。
きっと初めて訪れたかなにかで知らないんだろう。
「あの、バス当分来ませんよ」
ふと、俺はその少女に声をかけた。
普段なら絶対無視していたのに、なぜか気になってしまった。
「あまやどり」
少女は素直に答えてくれた。別段警戒されてもいないようだ。
「……どこまで行くの?」
俺はそう言って傘を彼女の方へ差し出す。
またまた自分でも不可解な行動をとっていた。
別に警戒されて無さそうだから調子に乗ったわけではない。
余計なお節介かもしれないが、どうにも放っておけない気がしたからだ。
「えきのほう。ぬれるのキライだからたすかった!」
すると少女は人懐っこい笑顔を浮かべ傘の中へぴょんと入ってきた。
あまりの無防備さに少し心配になる。
「……まあ、コンビニとは反対だけど、途中までな」
俺はなるべく無関心に見えるよう少しぶっきらぼう気味に歩き出すと、少女は小走りでついてくる。
俺が左で彼女は右、傘の柄を挟んで反対側に並ぶ。
「相合傘なんて何年ぶりだろう。そういや昔、よく傘なくしてこうやって迎えに来てもらってたっけな……」
会話もないまま歩いていると、要らぬ思い出が蘇ってくる。
それと共に再び脳裏に浮かぶ母の面影に感情が込み上げる。
せっかく考えないようにしていたのに、気が付けばまた母のことを思い出してしまっていた。
「なんで俺を置いて……絶対一人にしないって言ったくせに……!」
歯を食いしばって必死で堪えるが、悲しみの波が今にも瞼のダムを決壊させてしまいそうだ。
見知らぬ女の子が隣にいるのに泣くわけには……。
「そんなにちからいれたら、ツメがささっちゃう」
「え……?」
そのとき不意に隣から声をかけられたことで、ハッと足が止まる。
彼女は爪が掌に食い込むほど固く握られた俺の拳にそっと触れていた。
「『グーからパーで、にっぱにぱ♪』」
そして再び人懐っこい笑みを浮かべると、突然お遊戯の様な歌を歌い出したのだ。
「ちょ待って、その歌……」
「『グーからパーで、にっぱにぱ♪』」
更に今度は両手でパーをし顔の両横へ持ってくる振り付きで。
俺はこの仕草に覚えがあった。
「だからなんで知っ──」
「やって。『グーからパーで、にっぱにぱ♪』」
彼女は俺の言葉を無視して歌うのを止めない。
それどころか俺にまでそれをやれと要求してきた。
「はやく! 『グーからパーで、にっぱにぱ♪』」
「……ぐ、グーからパー……、にっぱ……」
有無を言わさぬ彼女に押し切られる形で復唱させられる。
「ちがう! 『グーからパーで、にっぱにぱ♪』」
そして間髪入れずのダメだし。
さっきまでの悲しさはどこへ、今は恥ずかしさを堪える方が勝っている。
「……『グーからパーで、にっぱにぱ』」
「もっとたのしそうに! 『グーからパーで、にっぱにぱ♪』」
「『グーからパーで、にっぱにぱ』」
「ふーりーつけも! 『グーからパーで、にっぱにぱ♪』」
「『グーからパーで、にっぱにぱ』」
傘を持っていない方の手でパーを顔の横へ持ってくる。
親指の先が頬に食い込んだ。
「そうそう!『グーからパーで、にっぱにぱ♪』」
「『グーからパーで、にっぱにぱ♪』」
──
「『グーからパーで、にっぱにぱ♪』どう楽しくなってきたでしょ?」
「いいトシ、笑ってる方の勝ちなんだよ。いつも笑ってる子がいちばん強いの。わかる?」
「グーのげんこつは、笑ってパーで包んじゃえ」
幼い頃から母子家庭だった俺は父の顔をほとんど知らない。
それが原因で、小学校の頃はよく靴や傘を隠されたりもした。
そんなとき母は、泣いて帰ってきた俺に決まってこの歌を歌って握り拳を解いてくれていたものだ。
握りし続けて痺れた手を優しく撫でてくれた母の手の感触は今でも鮮明に憶えている。
年齢よりもずっと節くれだった逞しい、けどとても優しかった手……。
──
「『グーからパーで、にっぱにぱ♪』」
「うん、よかった。やっとわらった」
「えっ……あっ、変なことやらせんなよ!」
少女の声で我に返ると、いつの間にか全力でやっていたことに気付いて急に恥ずかしくなって照れ隠しに声を荒らげてしまう。
すると少女はぴょんと飛び退くように俺から離れてしまった。
怖がらせてしまったのかと一瞬焦ったが、振り返った彼女にあの人懐っこい笑顔が返ってきて安堵する。
「あめ、やんだ♪」
ああそっちか、と傘を傾け空を仰ぐ。
すると彼女の言葉通り雨は止み、雲間から薄っすらと陽が差し始めていた。
俺は見上げた空から少女に向き直ると、突然先程までの笑顔から一転、少し寂しそうな微笑を浮かべていた。
なぜかその姿から目が離せなくなっていた。
そして、彼女から不思議な言葉が紡ぎ出される。
「『開いた手、忘れないでね。トシはすぐげんこつ握るの癖だから……』」
「!?……」
「『いきなりこんなことになっちゃってごめんね……』」
「な……、なに、言ってんだよ……なあ……」
少女の言葉に俺は激しく動揺し、微動だにできない。
心臓がどうしようもなく暴れて胸が痛く、汗が止まらなかった。
「『トシは強い子だから、ひとりでもがんばれるよね』」
「無理だって!……俺っ……」
「『拳を開いて、幸せを掴んで……きっとできる』」
そこまで言うと少女はそっと目を閉じた。
空気がまたふっと変わった。
「……じゃあ、つたえたよ」
「待てよ、俺まだ何も言っ──!」
少女はそう言うだけ言って背を向ける。
瞬間的に彼女がいなくなってしまう、そう直感しすぐに追いかけようとしたが、すでに彼女の姿は見えなくなっていた。
「そんな一方的な伝言……聞けるかよ……まだお別れだって言えてないのに……!」
そう吐き出すとまた何度めかの悲しさが込み上げてくる。
しかし、今回は不思議と涙は出ない。
もしかしたらさっきの言葉で少し自分の中で心境に変化があったのかもしれないが、その答えが出せるまでは時間が必要だ。
「……あ」
すると不意にお腹が鳴って体が現実を突きつけて来た。
とにかく何か買いに行こう。コンビニは先の角を曲がったらすぐそこだ。
「…………」
道すがら、なんとなく振り返る。
あの少女はもうどこにも気配はなかった。
「とし君! もう平気なの? ねぇ~、まさかこんなことになるなんて……」
自動ドアが開いたそのとき、驚いたような感じで声をかけられた。
視線を上げると、ちょうど会計を終えた小太りの中年女性がレジから駆け寄ってくる。
彼女は日頃から良くしてくれる隣のおばさんだ。
「そうそう、猫ちゃんの方は無事?」
「猫?」
「みなえさん、猫ちゃんかばって撥ねられたのよ。聞いてない?」
「いえ……」
母を亡くしてからずっと、俺は母のことを思い出してしまうのが嫌で記憶を掘り起こすことを避けていた。
しかし今は寧ろ積極的に思い出そうとすら思える。
母からもらったものを、しっかり受け継がなくてはいけないから。
「……そういえば庭に住み着いた猫がいて、餌あげてるとか言ってたような……それ以外は」
「あらそう……せっかくだもの、無事だといいわね」
おばさんのその言葉を聞いて、俺は脳裏にある像が浮かぶ。
「……まさかね」
「? とにかく、しばらくはおばさんが力になるから。何でも言って」
「ありがとうございます。最後の伝言は伝わったんで、なんとかやってみます」
俺はそう言って顔の横でパーを作って、今できる最大の笑顔をしてみせた。
「そ、そう……? あ、あとでお夕飯持ってってあげるから。できあいばっか食べちゃダメよ、じゃあね」
俺の態度に終始不思議そうに首を傾げていたおばさんは、支度があるのか俺の肩をぽんぽんと優しく叩くと足早にコンビニを後にした。
「……とりあえず軽くにしておくか。悪いから俺から訪ねて皿洗いでも手伝おう」
控えめにカロリーメイトをひとつだけ会計し、コンビニを出る。
「お、いい天気♪」
空を見上げるとすっかり雨は上がって太陽が顔を出しており、俺は日差しを作るように空へ向かって掌をかざすのだった。
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