水底の呼び声
その村の名は水鏡といった。
四方を深い山々に囲まれ、陽の光さえどこか青みがかって届くような盆地に、古くから存在する集落だ。
村の中央には、その名の由来となった湖が横たわっている。
鏡のように空を映すから水鏡湖。
しかし、村の老人たちは決してその名を口にせず、ただ「沼」とだけ呼んだ。
その水は、夏でも肌を刺すほどに冷たく、そして底知れぬほどに黒い。
水面は常に凪いでいて、まるで分厚いガラス板のようだった。
そのガラスの下に、何が沈んでいるのかを知る者はいない。
俺、相沢海斗がこの村に足を踏み入れたのは、夏の盛りだった。
祖母が亡くなり、その遺品整理のために、十年以上ぶりに生家に戻ってきたのだ。
東京でのイラストレーター稼業は鳴かず飛ばずで、都会の喧騒と人間関係に疲れ果てていた俺にとって、この静寂はむしろ歓迎すべきもののはずだった。
古びた木造の家は、湖のすぐほとりに建っている。
|縁側から数歩も歩けば、湿った土の匂いと、黒い水面が目の前に広がる。
家の中は、祖母が亡くなってから数ヶ月放置されていたせいで、黴と湿気の匂いが充満していた。
じっとりとした空気が肌にまとわりつき、呼吸をするたびに肺が重くなるような感覚。
俺はまず、家の窓という窓をすべて開け放った。
淀んだ空気を追い出すためだったが、流れ込んできたのは湖の匂いをさらに濃くしたような、生臭い風だった。
最初の異変は、その日の夜に起きた。
荷物を解き、ようやく一息ついた俺は、風呂場の掃除を始めた。
タイル張りの古い浴室は、至る所に黒カビが根を張っている。
壁を磨いていると、不意に蛇口から「ぽつん」と水滴が落ちた。
古い家だ。
水漏れくらいはあるだろう。
俺は気にせず掃除を続けた。
しかし、その滴は止まらない。
ぽつん。
また、ぽつん。
一定の間隔で、静寂を切り裂くように響く。
俺は蛇口のハンドルを力一杯に締めた。
きしむような金属音を立てて、ハンドルは固く止まる。
だが、それでも水滴は落ちてきた。
ぽつん。
まるで、時計の秒針のように正確に。
その音を聞いているうちに、俺は妙な気分になってきた。
ただの水滴の音ではない。
もっと粘り気のある、重い音に聞こえる。
ぽちゃん。
ぴちゃ。
まるで、何かが水面を叩いているような。
俺は蛇口の真下に、空の洗面器を置いた。
これで音はしなくなるだろう。
その夜、俺はひどく疲れていたにも関わらず、なかなか寝付けなかった。
耳の奥で、あの水滴の音が反響しているような気がしてならなかったのだ。
翌朝、俺は洗面器を確かめて、眉をひそめた。
溜まっていたのは、透明な水ではなかった。
白く濁り、ところどころに黒い砂のようなものが混じっている。
湖の水だ。
水道管が古いせいで、湖水が混入しているのかもしれない。
そう自分に言い聞かせたが、心のどこかで警鐘が鳴っていた。
その日から、家の中の「水」が俺を苛み始めた。
台所で米を研ごうとすると、一瞬だけ水がぬるりとした感触を帯びる。
トイレのタンクからは、時折ごぼごぼと空気が漏れるような音が聞こえる。
そして、あの蛇口の水滴は、どんなに固く締めても止まることはなかった。
ぽつん、ぽつん、と。
それはまるで、この家そのものが涙を流しているかのようだった。
俺には、忘れられない記憶がある。
十年前の夏。
まだ幼かった妹の渚が、この湖で死んだ。
村の子供たちと遊んでいる最中に、足を滑らせて。
俺もその場にいた。
だが、何もできなかった。
助けを呼ぶ声は喉に張り付き、ただ震えながら、渚が黒い水に飲み込まれていくのを見ていることしかできなかった。
彼女の小さな手が、最後に虚空を掴もうとして、そして消えた。
あの光景が、今も網膜に焼き付いている。
この家に戻ってきたのは、祖母の遺品整理という口実があったからだ。
本当は、あの日の自分と向き合うために、逃げていた過去に決着をつけるために、ここに来る必要があったのだ。
そう、思っていた。
この家に巣食う「何か」に気づくまでは。
ある雨の日だった。
外は朝から土砂降りで、湖は灰色の水煙に包まれていた。
俺は書斎で祖母の遺品を整理していた。
古い日記や手紙、写真。
その中に、一冊の古びたノートを見つけた。
祖母のものではなく、もっと古い時代のものらしい。
黄ばんだ和紙に、墨で崩したような文字が並んでいる。
それは、この土地の古い伝承を書き留めたものだった。
『水底には、ヌシ様がおわす』
『ヌシ様は、寂しがりでのう。時折、人を水に招く』
『招かれた者は、二度と土の上には戻れぬ』
『水鏡は、人の心を映す。会いたい者を映し、招き入れる』
『決して、水鏡に心を覗かれてはならぬ』
俺は背筋が凍るのを感じた。
会いたい者を映す。
その言葉が、毒のように思考に染み込んでいく。
その時だった。
階下から、奇妙な音が聞こえてきた。
ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ。
誰かが、濡れた足で家の中を歩き回っているような音だ。
泥棒か?
いや、この土砂降りの中を?
俺は息を殺し、書斎のドアをそっと開けた。
音は、廊下から聞こえてくる。
階段の方へ向かっているようだ。
俺は手元にあった鉄製の火鉢を掴み、抜き足差し足で後を追った。
廊下は薄暗く、雨音のせいで耳が利かない。
ぴちゃ、ぴちゃ。
音は、確かにそこにある。
階段を一つ、また一つと下りていく。
俺は心臓の鼓動を抑えながら、階下を覗き込んだ。
誰もいない。
玄関も、居間も、静まり返っている。
だが、そこには確かに「痕跡」が残されていた。
廊下の床に、点々と続く濡れた足跡。
それは、小さな子供の足跡だった。
裸足の、小さな足跡が。
玄関から始まり、居間を横切り、そして風呂場の前でぷつりと途絶えている。
俺は全身の血が逆流するような感覚に襲われた。
足跡の主が誰なのか、考えたくもなかった。
震える足で風呂場へ向かう。
ドアは、固く閉ざされていた。
ゆっくりと、ドアノブに手をかける。
ひやりと冷たい感触。
ドアを開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
空のはずの浴槽が、なみなみと黒い水で満たされていたのだ。
湖の水と、同じ色。
そして、水面には無数の長い髪の毛が、水草のように漂っていた。
「うわあああああっ!」
俺は悲鳴を上げて後ずさった。
腰を抜かし、その場にへたり込む。
心臓が張り裂けそうだ。
呼吸ができない。
あれは、なんだ。
いったい、何が起きている。
その時、浴槽の水が、ごぼりと音を立てた。
水面が揺れ、中心から何かがゆっくりと浮かび上がってくる。
それは、人の顔だった。
白くふやけ、目も鼻も溶けかかったような、のっぺりとした顔。
その顔が、俺を見て、にたりと笑った。
口が耳まで裂け、そこからぬるりとした黒い水が溢れ出す。
俺はもう、声も出なかった。
意識が遠のいていくのを感じながら、ただその恐ろしい光景を見つめていた。
気がつくと、俺は廊下で倒れていた。
体は冷え切り、雨に打たれたようにぐっしょりと濡れている。
恐る恐る風呂場を覗くと、浴槽は空っぽだった。
水も、髪の毛も、あの顔も、すべてが消え失せている。
夢だったのか?
あまりにも鮮明な、悪夢。
だが、廊下に残る小さな足跡と、俺自身の濡れた服が、それが現実だったと告げていた。
俺はもう、この家にはいられないと|悟った。
荷物をまとめるのもそこそこに、着の身着のままで家を飛び出した。
雨は小降りになっていた。
湖は、相変わらず不気味なほど静かだ。
俺は車に乗り込み、エンジンをかけた。
一刻も早く、この村から、この湖から離れたかった。
車を走らせながら、バックミラーに目をやった。
家の二階の窓が、目に入る。
その窓に、誰かが立っているのが見えた。
びしょ濡れの、小さな女の子。
ワンピースを着て、長い髪を濡らし、こちらをじっと見つめている。
その顔は、雨煙のせいでよく見えない。
だが、俺にはわかった。
渚だ。
死んだはずの、妹の。
彼女は、ゆっくりと手を挙げた。
おいで、とでも言うように。
その瞬間、俺の全身を凄まじい恐怖が貫いた。
あれは渚じゃない。
渚の姿を借りた、「何か」だ。
俺はアクセルを思い切り踏み込んだ。
車は悲鳴のようなエンジン音を上げて、村を飛び出していく。
もう二度と、振り返らなかった。
東京に戻った俺は、すぐに新しいアパートに引っ越した。
窓が少なく、日当たりの悪い、乾いた部屋。
水場からは、できるだけ遠い場所を選んだ。
俺は極度の水恐怖症になっていた。
シャワーを浴びる時は、必ずドアを全開にする。
コップに注がれた水の中に、何かの顔が映り込む気がして、まともに水分も摂れない。
夜、眠りにつくと、決まって水の夢を見る。
黒い水の中に引きずり込まれ、水底から渚が俺を見上げている夢だ。
彼女は何も言わない。
ただ、悲しそうな目で、俺を見つめている。
その度に、俺は叫びながら目を覚ますのだ。
体重は減り、目の下には隈がこびりついた。
イラストレーターの仕事も、手が震えて線が引けなくなり、すべてキャンセルした。
俺は、あの村から逃げてきた。
だが、逃げ切れてはいなかった。
あの湖は、あの水は、俺を追いかけてくる。
ある夜、俺はアパートの自室で、じっと息を潜めていた。
下の階から、水漏れがしているらしい。
管理人が業者を呼んで、何か作業をしているようだ。
壁を通して、ごぼごぼという排水管の音が響いてくる。
その音が、俺の記憶を呼び覚ます。
あの家の、トイレの音。
風呂場の、水滴の音。
ぴちゃ、ぴちゃ。
幻聴が聞こえ始めた。
濡れた足音が、すぐそこまで来ている。
ドアの外に、いる。
俺はドアスコープに顔を押し付けた。
廊下は薄暗く、誰もいない。
ほっと息をついた、その時だった。
スコープのレンズが、内側から、ぬるりと曇った。
まるで、誰かがレンズに息を吹きかけたように。
そして、水滴がぽつりとレンズを伝って流れ落ちる。
俺は飛び上がってドアから離れた。
ありえない。
ドアの内側だ。
俺の部屋の中だ。
どこから?
どこから水が?
俺は部屋の中を見回した。
壁、天井、床。
どこにも濡れている場所はない。
だが、確かに感じたのだ。
あのじっとりとした、湖のほとりの空気を。
生臭い、水の匂いを。
その匂いは、どんどん強くなっていく。
そして、気づいた。
匂いの元は、俺自身だった。
俺の服が、肌が、髪が、ぐっしょりと濡れている。
まるで、湖から上がってきたばかりのように。
鏡を見た。
そこに映っていたのは、やつれ果てた俺の顔。
だが、何かがおかしい。
鏡の中の俺は、笑っていた。
口が、耳まで裂けるほどに大きく開かれている。
そして、その口の中から、だらだらと黒い水が溢れ出していた。
それは、鏡の中の出来事ではなかった。
俺自身の口から、あの湖の水が、止まることなく流れ出しているのだ。
ごぼ、ごぼ、と音を立てて。
俺の体は、器になっていた。
あの湖の、あのヌシ様の、器に。
水鏡は人の心を映す。
会いたい者を映し、招き入れる。
俺はずっと、渚に会いたかった。
謝りたかった。
その心が、水鏡に覗かれたのだ。
俺が招き入れたのだ。
俺自身の、体の中に。
溢れ出す水は、あっという間に床に水たまりを作った。
黒い水たまりに、俺の顔が映る。
それはもう、俺の顔ではなかった。
白くふやけ、目も鼻も溶けかかった、あの化け物の顔。
その顔が、水底から俺を見上げて、にたりと笑った。
「おにいちゃん、みつけた」
それは、渚の声だった。
しかし、その声は水中で反響するように、ごぼごぼと不気味に歪んでいる。
ああ、俺はもう、逃げられない。
俺自身が、湖になってしまったのだから。
意識が、黒い水の中に沈んでいく。
最後に聞こえたのは、遠ざかっていく自分の悲鳴と、すぐ耳元で響く、楽しそうな水音だけだった。
ぽちゃん。
ぴちゃ。
ちゃぷ、ちゃぷ。