グーサイン
このたびは、『グーサイン』という物語を手に取っていただき、心から感謝いたします。本作は、日常の片隅に潜む“異界”と、“復讐”の連鎖を描いたホラー・ファンタジーです。私自身、大学時代に仲間と過ごした河川敷での夏の日々、その何気ない笑い声の中に、いつか“違和感”を感じる日が来るのではないか――という胸騒ぎを、ずっと抱えていました。
その感覚をベースに、人の絆や喪失、そして「恨み」が形を持つとしたら――という問いを小説として具現化させたのが本作です。登場人物たちの危機と選択を通して、 “復讐”と“再生”の狭間で揺れる心を一緒に感じていただければ幸いです。
2025年7月28日、夏本番の午後。大学4年生の沙織と拓也、そして幼なじみの仲間たちは、河川敷に広げたブルーシートの上で笑い声を交わしていた。蒸し暑い風が頬を撫で、炭火で焼ける肉の香りが曇り空のように重く漂う。焦げ目のついた豚バラを口に運んだ沙織は、「ほんとジューシー!」と満面の笑みを見せる。拓也は缶ビールを掲げ、「冷たくて最高だな!」と口に含み、光を反射した銀色の缶に向かってふざけてクンクンと鼻を近づけて遊び、その姿に皆がくすりと笑う。
──大学生活最後の夏。就活もゼミの発表もひとまず終わり、この刹那の平穏がまるで守られているかのように感じられた。
遠くの川面は風に揺れて、ひらひらと水しぶきをきらめかせる。その揺らぎと彼らの笑い声が重なり合って、河川敷にはまるで日常がゆったりと続いているような錯覚があった。それが壊れるその瞬間まで。
拓也が串を持ち上げ、「うまい」と囁く。沙織は「どう?こっちも食べてみて」と串を差し出すその一瞬、草むらの奥がざわめいた。
彼女は視線をそちらへ移し、声を呑んだ。茂みの奥、草むらの影に隠れるかのように、魚の鱗のように滑らかで、人の形をほんのりと残す――正体不明の顔が、じっと彼女たちを見つめていた。唾を飲みこむ喉が、熱を帯びて鳴る。
「拓也、今……見えた?」沙織の声は、夏の蝉すら呑むほど静かだった。
拓也はビール缶を一瞬止め、真顔で草むらを見返す。「う、うん……見えた」と震え混じりに返す。その間も草が揺れ、次の瞬間に再びちらりと何かが覗く。
──時間の流れが止まり、川のせせらぎも、風も、笑い声さえも消えたように感じられた。
静寂の中、草むらから何かがじわりと這い出してくる。音のない動きが彼らの心臓を締め付け、視界の端がざわつく。二人は自然と後退りし、ブルーシートに身体を寄せた。笑い声が遠ざかり、彼らが置いた缶や皿が無機質に目に映るだけだった。
「戻ろ…片付ける」「うん…」拓也の声が震える。沙織は肩を震わせながら頷き、抜き差しならぬ視線を草むらから離せない。誰かがくじけたように、自然と手を繋いでいた。
だがその時、「ぐぅ……」という闇からの呼吸のような音──乾いた地鳴りが土を揺らし、砂埃が鼻を突いた。川面が揺れ、水しぶきが彼らの視界を曇らせる。次の瞬間、得体の知れない顔が再び現れ――今度は手首から先を上げ、ギュッと閉じた拳で“グーサイン”を示した。
それを見た瞬間、豪快な破壊の波が一気に襲いかかる。大地が裂け、川が逆流し、土手から大量の泥水が噴き出した。驚きと恐怖が瞬く間に混ざり合い、仲間たちの悲鳴が空を引き裂く。
「走れ!!」拓也の怒鳴り声が、災厄に染まった空気を切り裂いた。二人は反射的に立ち上がり、沼地のように柔らかくなった土手を駆け上がる。片付け中だったタープやバーベキュー道具が、混乱の中に投げ捨てられた。
──波が迫る。視界がゆがむ。全身が水圧に押しつぶされる重みと、土の感触が肉体に食い込む。
「しがみついて!」拓也は沙織の手を強く掴み、衝撃波が二人を叩きつける中でも振りほどかれないように踏ん張った。だが波に巻かれながら、背後にゆっくりと近づく音――ざぶん、ざぶん、と車のエンジン?いいや、それはエンジン音をかき消す津波のうねりだった。
目をこらすと、対岸から車が泥に半ば埋まりつつ、二人に向かって必死にこちらへ突進してきた。
老夫婦が乗る軽バン。ハンドルを必死に握る老いた手の震えと、その顔にこもる焦りが、夕陽にぎらついて映っていた。
「乗れ!」と老婆の叫び声が風に乗って届く。拓也がとっさに沙織を抱き寄せ、泥だらけの荷台に飛び乗る。老夫婦も車のドアを開け、二人を迎え入れた。汗と泥と恐怖で彼らの動作はぎこちないが、それでも救いだった。
しかし背後――そう、向こう側からも津波の壁がゆっくり、しかし確実に迫っていた。
「間に合うか?」拓也が老婆に尋ねる。老婆は震える声で、「行くんだ!!早く!」と命じる。その声に車はエンジンを唸らせ、泥と砂を蹴立てて前進しようとした。
瓦礫と泥にタイヤがはまりかけ、スリップを起こす。老人が運転席から懸命にハンドルを切り、「もう少し、もう少しだ!」と叫ぶ。津波のうねりは窓にしぶきをかぶせ、ガラス越しに見える彼らの顔がゆがむ。車内は緊迫と恐怖の空気に飲まれていた。
しかしその時――向こう側からの津波が高く盛り上がり、泥と砂の壁と化した道路を飲み込み始める。「ダメだ、止まるぞ!」老婆の声に続き、車がガクンと止まる。地盤の沈下音と、迫る水圧が、車体を巨大な波に押しつぶすように一気に飲み込んだ。
絶望的なまでの水圧。「飛び込め、今だ!」老婆が運転席の窓をこじ開け、鋭く彼らに指示を出す。老人も後ろを叱りつけるように、「川の中に飛び込め!」と叫んだ。車が揺れ、濁流が車内へ染み込む。
拓也は沙織を抱いて荷台から飛び出し、老婆が即座にサイドドアの簡易椅子のようなウィンドウ枠を持って二人を押し出す。「しっかり掴まれ!」老人が叫び、二人は泥水と瓦礫の中へ投げ出された。
波にのみ込まれながらも、拓也は沙織のひざを支え、宙を蹴るように奔った。水と泥の抵抗が体を引き戻そうとする中、掴むのはお互いだけ。車はそのまま水圧に押し戻され、老夫婦の影が後ろに消えていった。老婆の「さよなら!」という声――かすかな叫びが、どこか遠くに聞こえた。
土と水の匂いが充満する中で、二人は必死で川岸を目指して飛び込み、水面下の瓦礫を蹴り、足で水底の異物を踏みしめた。背後に高波が迫り、胸まで水が迫る。呼吸できない絶望的な瞬間、拓也は口を開き叫んだ。
「さおり…しっかり…!」
その時――水面が白く波立ち、しぶきが鋭く眉間を切り裂いた。
視界が一瞬真っ白に染まって消えた――
そして……
暗闇。
無。
気がつけば、沙織は肩のあたりまで土と砂に埋もれ、息が続くかどうか分からない場所にいた。胸を叩く血の熱さが、唱えるように生の記憶を呼び起こす。掻き出した川泥の重みが、指先にずっしりと乗る。
「……拓也?……大丈夫?」
耳は遠くて、声は砂に消された。だが、かすかに「さおり…」という声が、ぬるい水の中から聞こえた。
無意識に手を伸ばす。拓也の指に触れた瞬間、ぎゅっと力が戻る感覚があった。安心よりも不安。胸の奥がぐらりと揺れる。
──川の向こう。夜の帳が降りたような河川敷に、小さく揺れる街灯が点滅していた。残骸に混ざって、鳥の羽根のように白い紙切れがひらひらと舞う。その中に、例の「顔」の断片のような線が──草むらの闇に浮かぶ白い影が、どこか遠くで見下ろしているような錯覚に襲われた。
土と水の匂い。混乱。恐怖。けれど。
「拓也…しっかり…」沙織の声は、囁きにも届かない。その奥に、逃れたい――という強い意志が小さく芽吹いていた。
闇から目覚めて
暗闇に溶け込む中、痛みと呼吸が交互に戻ってくる。沙織の意識は波のように揺れながら、ようやく完全に戻った。
「拓也…?」と囁くように声を上げる。
土と泥にまみれた体を動かし、伸ばした手に感じたのは──冷たい、小さく震える指先だった。
「さおり、ここか…」拓也の声はかすれ、喉が震えていた。
砂利混じりの水たまりに、二人はうなだれながらも互いを確かめる。瓦礫と泥の間に埋れながら、動けるだけ動いて土手へよじ登る。
やがて、夜が明け始める。空は濁り、厚い雲の切れ間から灰色の光がぼんやりと差し込んでいた。二人は泥だらけの衣服を抱え、震えながら川から離れた土手に座り込む。
沙織は声と呼吸を整えながら、遠くに見える避難所を探す。小さなランプや人影が見え始めていた。
「……あそこ、見える?」と拓也が指差す。
「うん…行こう」沙織は砂利を蹴り、立ち上がる。ゆっくりではあるが、一歩ずつ歩き出した。
避難所の灯
避難所には、体育館と簡易テントが混ざった仮設設営。人々が互いに支え合い声を交わす中、炊き出しの鍋が灰色の空に湯気を上げていた。救護テントには、医療スタッフと、けが人の姿がちらほら見える。
足取りが重い彼らに、青年スタッフが「こちらへ」と声をかけてくれた。
青年:「大丈夫ですか?ゆっくりこちらへ……」
沙織:「すみません…津波に巻き込まれて…」
スタッフは優しくガウンで覆い、体温を測り、水と毛布を渡してくれた。
すると、傍にいた女性ボランティアが声を潜めた。
女性:「ご存知ですか?“グーサイン”のこと…避難所でも噂になってるんです」
話を聞くと――
津波前の河川敷で、“グーサイン”を見た人々が多発している。
避難所にも“グーサイン”を手や姿に模した者が現れており、不安が拡散している。
「顔を見た」「声が聞こえた」など、視覚・聴覚を伴う体験者が増えている。
拓也と沙織は顔を見合わせる。胸がぎゅっと締めつけられるようだった。
沙織:「私…あの顔を、見た。河川敷で…」
拓也:「……俺も。グーサイン…奴が…」
かすかな震えと、決意が同時に胸を満たす。
避難所は夜の帳が降りて、静けさを取り戻しつつある。被災者たちの疲労が色濃く、薄暗いランタンの光が揺れている。
沙織は毛布にくるまりながら、小声で拓也に言った。
「これは、ただの災害じゃない。あの“顔”が関係している気がする」
拓也はうなずき、ポケットにしまっていた携帯の画面を見つめた。ライトが割れた画面には、彼女が撮った草むらのシルエット画像がかすかに光っていた。
「証拠として…保管しよう。次は、奴を見つけ出す」
沙織は強く頷いた。
避難所の外では、遠くにひときわ大きな、濁流の音が不気味に響いている。
── 災害と“顔”による恐怖は交錯し、夜はまだ明けない。だが、彼らの心には逃避ではなく“立ち向かう”覚悟が芽生えていた。