私の推しは隣の喫茶店マスター(70)。
「……だめだ、一行も進まない」
高宮美波は、パソコンの画面に映るドイツ語の羅列に、深いため息をついた。時刻は午後三時。フリーの翻訳家である彼女の仕事場は、静まり返った自宅のリビングだ。画面の向こうにある、難解で、乾ききった法律用語の森。その中で完全に迷子になっていた。
(気分転換、しなくちゃ)
これ以上、無為に時間を溶かすわけにはいかない。美波はノートパソコンをそっと閉じ、羽織ものを掴んで玄関へ向かった。あてもなく歩く。それだけでいい。淀んだ思考が、少しでも流れ出してくれることを期待して。
見慣れたはずの商店街を抜け、一本、筋の違う路地へと足を踏み入れる。普段なら決して選ばない道。そこに、その店はあった。
『喫茶 アカリ』
蔦の絡まるレンガの壁に、控えめな明朝体でそう記された看板。ショーウィンドウには、なぜか少し傾いたナポリタンとクリームソーダの食品サンプルが、埃をかぶって鎮座している。時間も、喧騒も、ここだけが取り残されているかのようだった。
普通なら、通り過ぎていただろう。けれどその時の美波は、何かに引き寄せられるように、重厚な木製の扉に手をかけていた。
カラン、コロン。
澄んだドアベルの音に迎えられる。
店内は、想像した通りの、しかし想像以上に美しい空間だった。磨き抜かれた一枚板のカウンター。その奥で、年代物のサイフォンが静かに光を放っている。客は誰もいない。世界には、自分と、カウンターの内側に立つ一人の老人だけしか存在しないような錯覚に陥った。
「……いらっしゃいませ」
低い、穏やかな声だった。
年の頃は七十歳くらいだろうか。雪のように白いシャツに、黒いベストを隙なく着こなしている。銀縁の眼鏡の奥にある瞳は、深く、凪いだ湖のようだった。
「あ……えっと、コーヒー、いただけますか」
「かしこまりました。ブレンドでよろしいですか」
「はい、お願いします」
短いやり取り。それだけで、ささくれ立っていた心が不思議と落ち着いていく。
男――店のマスターは、黙って作業を始めた。
豆を計量する真剣な眼差し。ハンドルを回す、規則的で小気味の良い音。白いフィルターをセットする、流れるような手つき。そして、細口のポットから、まるで一本の光の糸のように湯が注がれていく。
(きれい……)
それは、仕事という言葉では片付けられない、一つの完成された「儀式」だった。美波は、パソコンの画面と格闘していたことなどすっかり忘れ、その一挙手一投足から目が離せなくなっていた。
やがて、ふわりと漂ってきた香りに、美波ははっと息をのむ。ただ香ばしいだけではない。甘く、どこか懐かしい、心を芯から解きほぐすような香りだった。
「お待たせいたしました」
目の前に、そっと置かれた一杯のコーヒー。白いカップの中で、黒い液体が静かに湯気を立てている。
一口、含む。
(……何、これ)
熱い、と思った直後、全ての味覚が歓喜の声を上げた。
苦味と酸味、そして奥深いコク。それぞれが完璧なバランスで主張し、それでいて見事に調和している。乾いた喉を、そして疲れた心を、慈しむように潤していくのが分かった。こんなコーヒーは、生まれて初めて飲む。
夢中で飲み干し、代金を払って店を出る。
振り返ると、『喫茶 アカリ』の看板が、西日に照らされて淡く光っていた。
明日もまた、ここに来よう。
灰色の日常に、小さな明かりが灯った瞬間だった。
***
あの日以来、『喫茶 アカリ』のカウンター席は、高宮美波の第二の仕事場であり、聖域となった。
不思議なもので、一日一度、あの場所でマスター・一条静馬の淹れるコーヒーを飲むと、あれほど滞っていたドイツ語の森をすいすいと進めるようになったのだ。彼の静謐な儀式を目に焼き付け、極上の一杯で心をリセットする。それは、美波の日常に欠かせない、大切なルーティンとなっていた。
季節は初夏から梅雨へと移ろうとしていた。
ある雨の日の午後、いつものように店の扉を開けると、カウンターの隅に置かれた小さな一輪挿しに、瑞々しい紫陽花が活けてあるのが目に留まった。
(……きれい)
それだけではない。店内に流れる音楽も、いつもの軽快なジャズではなく、雨粒が鍵盤を叩くような、ビル・エヴァンスの物悲しくも美しいピアノ・トリオだ。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは。……今日の音楽、素敵ですね」
思わず口にすると、一条は少しだけ驚いたように目を見開き、それからふっと口元を緩めた。
「雨の日には、どうもこれをかけたくなりまして」
(笑った……)
ほんの些細な変化。だが、美波の心には、その微笑みが陽だまりのように広がった。これが世に言う「推し活」の醍醐味というものなのだろうか。彼のことをもっと知りたい、という気持ちが日に日に大きくなっていくのを感じていた。
そんな日々の中、美波は他の常連客の存在にも気づき始めた。
決まった曜日に現れ、窓際の席で文庫本を広げる物静かな男子大学生。そして、マスターと旧知の仲らしい、上品な老婦人。
「一条さん、この前お話しした子猫、どうかしら。まだ来る?」
ある日、その老婦人が、美しい焼き菓子の箱をカウンターに置きながら尋ねた。
「ええ、まあ。相変わらず食いしん坊ですよ、鈴木さん」
「あらあら。あなたに似たのかしらね」
「やめてください」
一条は、心底困ったように眉をひそめた。普段の涼やかな表情からは想像もつかない、人間味のある反応だった。
(猫……? マスターが?)
美波は、コーヒーカップを持つふりをしながら、必死に聞き耳を立てる。鈴木と呼ばれた老婦人は、悪戯っぽく笑うと「じゃあ、これはあの子によろしくてよ」と言って、焼き菓子とは別の小さな紙袋を一条に手渡した。
その日の帰り道、美波は忘れ物をしたふりをして、そっと店の角を曲がってみた。好奇心が、理性に勝ってしまったのだ。
店の裏口、通用門のそば。
そこに、彼はいた。
黒いベスト姿のまま、屈み込んでいる。その足元には、一匹の茶トラの子猫がすり寄っていた。一条は、あの節くれだった美しい指で、子猫の喉を優しく、本当に優しく撫でている。
「ほら、今日は上物だぞ」
鈴木さんから受け取った紙袋から、高級そうな猫用おやつを取り出して与える声は、店で聞くよりも数段、甘やかだった。
(……うそ)
完璧で、孤高で、一つの隙もないと思っていた男の、あまりにも意外な一面。
美波は、心臓が大きく音を立てるのを感じながら、そっとその場を離れた。胸が、温かいもので満たされていく。
季節は、夏の盛りへと向かっていた。
『喫茶 アカリ』のメニューには、水出しのアイスコーヒーが加わっている。
ガラスのカップの中で、カラン、と涼やかな音を立てる氷。その向こうで、相変わらず静かな佇まいでカウンターに立つ一条を眺める。
けれど、もう美波には見えていた。
あの涼やかな仮面の下に隠された、不器用な優しさと、ささやかな秘密が。
彼女の中で一条は、ただ完璧なだけの存在ではなく、もっとずっと愛すべき、一人の人間になった。その事実に、美波の日常は、以前とは比べ物にならないほど、鮮やかに彩られ始めていた。
***
季節は夏を越え、街路樹の葉が少しずつ色を変え始めた秋のことだった。
その日、高宮美波は、『喫茶 アカリ』のカウンター席で、一条の淹れるコーヒーを待ちながら、胸の中に小さな棘が刺さるのを感じていた。
(……顔色が、悪い)
いつものように完璧な所作。しかし、よく見れば、カップを置く彼の手が、ほんの僅かに震えている。銀縁の眼鏡の奥の瞳も、心なしか力が弱いように見えた。
「マスター、お疲れですか?」
喉まで出かかった言葉を、美波はコーヒーと一緒に飲み込んだ。
言えるはずがなかった。自分はただの客だ。彼のプライベートに踏み込む権利などない。その当たり前の事実が、今日に限っては、ひどくもどかしく感じられた。
その胸騒ぎは、翌日、現実のものとなる。
いつもの時間に店を訪れると、固く閉ざされた扉に、一枚の白い紙が貼られていた。震える手で書かれたような、無骨な文字。
『本日、都合により休業いたします 店主』
美波の心臓が、大きく音を立てた。
都合とは、何だろう。昨日の、あの僅かな手の震えが頭をよぎる。
その日、美波は一日中、仕事が手につかなかった。パソコンの画面を見つめても、浮かんでくるのはあの貼り紙の文字と、一条の疲れた横顔ばかりだった。
休業は、二日、三日と続いた。
美波は毎日、まるで巡礼者のように店の前まで足を運んだ。しかし、扉の貼り紙は変わらないまま。シャッターが下りた店を前に、自分がいかに無力であるかを痛感させられた。
電話番号も、住んでいる場所も知らない。
安否を確かめる術がない。
心配でたまらないのに、できることは何一つなかった。
(これが、「推し」……?)
雨が降り出した四日目の夜。美波は自室の窓から、黒く濡れた街を眺めながら自問した。
安全な場所から、一方的に彼の完璧な姿を享受し、癒やしをもらっていただけではないのか。彼が自分の日常を彩ってくれる、都合のいい存在だと、どこかで思っていたのではないか。
その身勝手さに気づき、胸がずきりと痛んだ。
違う。今は、そんなことはどうでもいい。
完璧なコーヒーも、美しい所作もいらない。ただ、元気でいてほしい。無理をしないで、穏やかに過ごしていてほしい。
初めて、見返りを求めず、ただ純粋に一人の人間の無事を祈っている自分に気づいた。
「店主と客」という関係ではもう足りない、もっと切実な想い。
それに気づいた時、彼女の中で何かが変わった。
翌朝、美波は薬局で一番値段の高い滋養強壮ドリンクを一本買い、小さな便箋に数行だけ言葉を綴った。
そして、まだシャッターが下りたままの『喫茶 アカリ』の、冷たい金属製の郵便受けに、そっとそれを滑り込ませた。
『ご無理なさらないでください。
またマスターの美味しい珈琲が飲める日を、心待ちにしています。
一人の客より』
それは、届くかどうかも分からない、ささやかな祈り。
しかし、ただ見守るだけだった彼女が、沈黙の扉の向こう側へ、初めて手を伸ばした瞬間だった。
***
あの日から、さらに一週間が過ぎた。
高宮美波が店の前を通ることは、もはや日課ではなく、ほとんど祈りに近い行為になっていた。シャッターは変わらず閉ざされたまま。郵便受けに返事はない。あの手紙は、独りよがりな自己満足だったのかもしれない。そんな諦めが胸をよぎった、土曜日の昼下がり。
ふと顔を上げると、見慣れた店のシャッターが、上がっていた。
そして、磨かれたガラス扉の向こうに、淡いオレンジ色の明かりが灯っているのが見えた。
(……あ)
心臓が跳ねる。
美波は、駆け出しそうになる足を抑え、ゆっくりと、しかし確かにお店の扉に手をかけた。
カラン、コロン。
懐かしいドアベルの音が響く。
カウンターの内側には、彼がいた。以前よりも少し痩せただろうか。だが、清潔な白いシャツと黒いベストを纏い、背筋を伸ばして立つ姿は、紛れもない『喫茶 アカリ』のマスター、一条静馬その人だった。
「……いらっしゃいませ」
少し掠れた、けれど穏やかな声。
美波は、込み上げてくる熱いものを必死にこらえながら、いつもの席に腰を下ろした。安堵で、全身の力が抜けていくようだった。
「ブレンドを、お願いします」
声を絞り出すのが、やっとだった。
「かしこまりました」
一条は静かに頷くと、豆を挽き、湯を沸かし始めた。
その所作は、以前の完璧無比なそれと比べると、ほんの少しだけ、ゆっくりに見えた。だが、その人間らしいテンポが、今の美波にはかえって心地よかった。
やがて、極上の一杯が、彼女の前にそっと置かれる。
立ち上る、深く優しい香り。
美波がカップに手を伸ばそうとした、その時だった。
「郵便受けの、あれ。ありがとうございました」
一条が、静かに言った。
「とても、温かい味がしました。もったいなくて、まだ眺めているだけですが」
彼は、あの差出人が美波だと、気づいていたのだ。
顔が、カッと熱くなる。美波は俯いたまま、声にならない声で「いえ、そんな…」と呟いた。
「過労で、少し休んでいただけです。もう大丈夫ですよ」
そう言って、一条は続けた。
「でも……正直、もう店を畳もうかとも、考えていました。年も年ですしね」
美波は、はっと顔を上げた。
一条は、そんな彼女を真っ直ぐに見つめて、こう言ったのだ。
「あなたの手紙に、励まされました」
その瞬間、美波の中で、ずっと燻っていた勇気に火が灯った。今、言わなければ。ずっと言いたかった、本当の気持ちを。
「無理、なさらないでください」
震える声で、言葉を紡ぐ。
「マスターが淹れてくれるコーヒーはもちろん好きですけど……でも、私は、マスターが元気でいてくれることが、一番嬉しいんです」
それは、もはや「客」の言葉ではなかった。
美波のまっすぐな想いを受け止めて、一条は、初めて見るような、深い、優しい笑みを浮かべた。目尻の皺が、幸せそうに寄せられる。
「あなたのようなお客さんがいてくれるから」
彼は言った。
「まだもう少しだけ、頑張れそうです」
その言葉は、美波の心の奥深くに、温かい光としてすとんと落ちた。
日常が戻ってきた。
けれど、それは以前とは全く違う、新しい光に満ちた日常だった。
カウンターを挟んだ二人の間に、交わされる言葉が少しだけ増えた。天気の話。音楽の話。そして時々、店の裏に現れる、あの茶トラの子猫の話。
美波は、お気に入りのカップでコーヒーを味わいながら、心の中でそっと微笑んだ。
(私の推し活は、どうやら、まだ始まったばかりらしい)
恋愛ではない。しかし、人生を何よりも豊かにしてくれる、静かで、確かで、温かい絆。
その光が待つ場所へ、彼女はこれからも、通い続けるのだろう。
(了)