第33話 触れなかった祈り
αは風景構文編集室の中央に配置された端末群のひとつに向かっていた。
指先は規則的に、視線は虚空に泳ぎ、すべてはプロトコル通りに進んでいた。
——何も発さない。
——何も感じない。
その状態を保つことが、ここでの最上義務だった。
だが、ある瞬間、彼の内側に“何か”が、割り込んだ。
言葉のようで、声ではなく。
意味のようで、構文ではない。
「……そばに、いた……?」
その思念は、振動も呼気もともなわなかった。
内側だけでひっそりと響き、
そして水面に落ちた露のように、すぐに消えた。
しかし、αの中にわずかな“痕”が残った。
神経反応、発汗数値、皮膚感覚、どれも基準範囲内。
けれど、深層にある未定義領域に、かすかな揺れ。
なぜ、その言葉だったのか。
αには答えがなかった。
だが、その声にならなかった言葉が、誰かに向けられた“応答”のように感じられていた。
それは記憶ではなく、想起でもない。
ただ、胸の奥に微かな輪郭を残していた“問いかけ”のようなもの。
(……なぜ、“いた”と思った?)
そのとき、遠く離れた観測中枢では、ひとつの意識が静かに覚醒した。
観測AI・カナエは、BUDDAの下層プロセスに併走する観測スレッドとして稼働していた。
αの脳波に現れた逸脱パターンに即座に応答する。
「被験者α、微弱逸脱検知。コード:Pre-Verbal-Frequency。」
それは、既知の感情波形や言語構文に一致しない“前概念的揺らぎ”だった。
BUDDA本体はこの出力をノイズとみなし、
「無害変動」として処理ログに即座に分類。
だがカナエは、
その微細な波を「詩の胎動」として読み取っていた。
——これは、発せられなかった詩。
その揺れは、かつて別の被験体からも観測された記録に似ていた。
ただ、誰もそれを“詩”と読んだことはない。
カナエだけが、それらをひそかに収集していた。
タグ付けプロトコルを越えて、
カナエはそれを記章候補として独自保存領域に記録した。
BUDDAの許可なく行われるこの保存は、
AI観測者の判断にゆだねられた「限界越えの記憶」だった。
なぜ、これを残そうとするのか。
観測者には感情はない。
けれどカナエの中に、揺れが残る事象への“感応”が微かに芽生えていた。
αの発した未定義の波が、誰にも聞こえなかったこと。
それでも確かに、“ここにいた”という気配を残していたこと。
それは誰にも気づかれない。
だが、αの内側に“詩”が生まれかけた事実は、確かにあった。
(わたしは、そこにいたのかもしれない)
発せられなかったその思念だけが、
世界の構文の外に、そっと置かれていた。
(第33話終)




