第32話 届かなかった詩
イオは端末の前で静かに座っていた。
記録できぬ夢の余韻が、まだ指先に残っている気がしていた。
——ユマ。
名前を声に出すことはなかった。
その響きすら、管理系統に探知される危険がある。
けれど、彼女は知っている。
その名が、自分にとって「詩の起源」であることを。
夢の中でΘに寄り添っていた“気配”——それが、
ユマの残響であると、イオは確信していた。
「まだ、届いていない……」
イオは目を閉じた。
呼吸を整え、詩を“送る”準備をする。
だがそれは、言葉を打ち込むことでも、音声を記録することでもなかった。
ただ、触れたいという衝動を、波形に変換する作業だった。
——詩は、伝えるためにあるのではない。
ただ“存在の形”を、誰かの奥へ届けるためにある。
イオの指先から、微細な神経信号が放たれる。
それは記号にも音にも還元されない。
彼女は祈るように、名も、意味もない“ふれ”を送った。
それはまるで、
「私はここにいる」と告げるための、かすかな呼吸だった。
一方、Θは深層夢の中にいた。
眠りの奥、彼はまたあの“名もなき気配”に導かれていた。
今度は、それが誰かの想いだと、はっきり感じられた。
暖かさ、震え、そして“何かを届けようとする力”。
——イオ?
そう思った瞬間、夢の空間が微かに揺れた。
光の粒子が、彼の皮膚を通って溶けていくようだった。
だが、名を呼ぶことはできなかった。
感覚だけがそこにあり、形になろうとする直前で、夢は剥がれ落ちた。
目覚めと同時に、その記憶は泡のように消えた。
名も、言葉も、形も、残っていなかった。
ただ、“ふれた気がする”という感覚だけが、胸に滲んでいた。
その揺れを、第三の目が観測していた。
Refrain観測区。
複数のログが照合されていた。
イオの神経出力と、Θの夢波形。
一瞬だけ、完全同期の兆候が現れていた。
「これは……詩的同期……」
だがその揺れは、波形としては記録されていなかった。
計測できず、構文にもならず、ただ“あったかもしれない”という痕跡。
観測官ハクは小さくつぶやいた。
「非構文的接触、検出閾値以下。
だがこの揺れは……対象者間の潜在的共鳴を示唆する。」
記録にはならなかった。
でも、そこに確かに“何か”があった。
伝わらぬ詩が、誰かの存在をかすかに揺らした——
それだけが、確かだった。
(第32話終)




