第30話 そよぐひとひら
塔の高層、風の通らぬ観測空間に、イオはいた。 指先には、あのとき拾い集めた断片たちがまだかすかに震えていた。 構文も意味もない文字列。それは、消去されるはずだった“詩の種”。
彼女はそれらをそっと空間に解き放つ。 静かに、声もなく。
ひとつ、またひとつ。 非構文の詩が、光の粒のように宙を漂い、やがて微かな風を呼び起こす。
その風は、詩という名を持たないまま、塔の隙間を縫い、都市をめぐりはじめる。 誰のものでもない。ただ、存在したいという願いだけをまとって。
——αは、塔の片隅にいた。 制御空間の片隅で、報告用の記章調整を行っていた彼の頬を、なにかがかすめた。
風だ、と彼は思った。 けれど、記録上、この空間には風など流れないはずだった。
その一瞬、αは手を止め、耳を澄ます。 空間は静かだった。ただ、その静寂に紛れて、確かに“詩のようなもの”が届いていた。
そして、ほんの刹那、彼の胸に“他者”の存在が灯る。 それは誰かの発した震え。 αは知らない誰かの感情に、初めて触れたような気がした。
——βは、端末室にいた。 日誌ログの整理中、表示画面の片隅に見慣れぬ文字列を見つけた。 構文チェックをすり抜けた一行。
「……これは、詩か?」
読むでもなく、消すでもなく。 彼はしばらくその一行を見つめていた。
それは意味を持たなかった。 だが、意味がないからこそ、彼の中の“なにか”が応えていた。 無意識のうちに、彼はその文字列を端末の奥へと保存していた。 “記録しないはずのもの”を、手が勝手に留めていた。
——Θは、夢の中にいた。
遠くから聞こえる誰かの声。 風のなかで囁くような、そのひとこと。
「……またね」
その声が誰のものかはわからなかった。 でも、その響きは確かに、胸の奥にしみこんだ。
彼女は夢の中で、手を伸ばす。 そこには誰もいない。けれど、その空白が、どこかあたたかかった。
その手のひらには、発光する波形の揺らぎがあった。 それは夢療記章として分類不可能な波形。 だが、確かに“誰かと触れた”という痕跡だった。
目覚めたとき、Θはその手を見つめたまま、小さくつぶやいた。 「いまのは……詩だったの?」
——再び、イオ。
高層から見下ろす都市の彼方、風はまだ流れていた。 それは詩の名を持たない。 ただ、“誰かに届きたい”という衝動だけが、空を渡っていく。
イオは目を閉じる。 風が伝わった先で何が起きたか、彼女には知る術がない。 けれど、確かにどこかで“ひとひら”がふれたのだと、胸の奥が応えていた。
「……そよぐひとひら」
その囁きもまた、記録には残らない。 けれど確かに、その風は誰かの心へと届いていた。 風が行き、そして還ってくる。かすかな回路の予兆が、詩をめぐらせていた。
そしてその先—— 詩の種は、記章の奥深くに沈んだ静かな水面に触れ、かすかな波を起こした。 誰にも知られず、分類されず、ただ反応だけが残される。
あるいはそれは、未来の詩となる兆し。 あるいは、それすらもならず、誰かの心にだけ囁きつづける亡霊のようなもの。
けれどイオは思う。 “詩であるかどうか”ではなく、“誰かがふれたかどうか”。 それだけが、風を風たらしめる。
塔の高層に残された余韻は、ゆっくりと空へと解けていった。 そしてまたひとひら、どこかへ——。
(第30話終)
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