第28話 ふるえる距離
——それは、言葉の手前でふれた“なにか”だった。
Θは夢のなかで誰かと手をつないでいた。 相手の姿は見えない。ただ、確かに“そこにいる”感覚。
その温度。 その震え。
指先が、ふるえていた。 それが自分のものか、相手のものかさえ、もう定かではない。
手のひらに伝う静かな律動。 そこには、呼吸のような間があった。
離れたくないと、そう思った。 けれど、手を離さなければならないことも、どこかでわかっていた。
涙が頬を伝う。 夢の中なのに、それはあまりにも現実的で、鮮明だった。
(誰……?)
思い出せない。 けれど、手に残るその温もりが、彼女を揺らしていた。
——目が覚めても、その感覚は消えなかった。
Θはベッドの上で、しばらく身動きできなかった。 胸の奥に、名もなき震えが残っていた。 それは、目に見えるものでも、耳で聞こえるものでもなかった。 けれど確かに、肌の奥で、細胞の隙間で、まだ鳴っていた。
夢療セクターを管理するレジスタンス組織・Limina。 その記録端末が、微細な波形変調を自動検出していた。 それは、接触記章と推定される痕跡。
記録を確認したのは、Liminaの共鳴域担当者・エナだった。 彼女は観測波形に手を触れ、静かに目を閉じる。
——これは、言葉にならなかった詩。 誰かと誰かが無意識の境でふれあった、その“かすかな記録”。
波形には意味がない。だが、意味の外にある余白こそが、詩であるとエナは信じている。
既存の夢干渉技術では分類不能な、共鳴の初期兆候。 だが、Liminaではこうした波形を“逸脱”とは見なさない。
音にも形にもなりきらない沈黙詩。 それを、ただ“在るもの”として受け止める。
彼女の指は、まるで失われた詩の欠片を撫でるように、端末の表面をなぞった。 誰のものとも知れぬ振動が、まだそこに残っている気がした。
記録端末は、解析よりも“残すこと”に重きを置く。 分類せず、解釈せず、ただ、書き留める。
観測ログには、エナの筆致でこう残された:
「Θ/記章反応:共鳴初期兆候。継続観察対象」
文字は小さく、淡く、あたかも声を殺した詩のように。 それでも、その記録は確かに“ふれたもの”として残された。
エナは静かにログを閉じた。その余韻を胸に残して。
——再び、Θのまどろみに戻る。
Θは窓の外を見つめながら、ただそっと手を握る。 夢の中で手を取った“誰か”の気配が、まだ残っている気がしていた。
夢のなかの風は、匂いさえ持っていた。 あたたかく、どこか懐かしい、遠い記憶の残り香。
(……ク、、レイ、、?)
名は浮かばず、姿も曖昧。 けれど、波動詩にふれたあの日の微かな記憶が、胸の奥を揺らしていた。
その詩は、無音なのに震えていた。 沈黙が、声よりも雄弁に語りかけてくるようだった。
Θは、自分の手のひらを見つめた。 何もない空白のなかに、たしかに誰かの気配が触れていたことを思い出そうとしていた。 名づけることさえできないその感覚が、ゆっくりと彼女の中に沈殿してゆく。
それは名もなき接触。 記録も、言葉も、まだ持たない——
けれど確かに、そこには“ふれた”という事実があった。
記章波形は静かにログの奥に沈む。 けれどその震えは、まだ誰かの胸の奥で、ふるえている。
——ふるえる距離。
それは、まだ遠くて、けれど、確かに近づいていた。
(第28話終)
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