第26話 息の奥、言葉の外
——息の奥に、言葉の手前に、詩があった。
イオは静かに目を閉じ、胸の奥に沈む律動を探る。 そこにあるのは構文でも意味でもなく、ただ“揺れ”だった。 それは、彼女の内から発された、誰にも聞こえない風。
唇は動かず、声帯も震えない。ただ、吐く息の微かなリズムが空気を揺らす。 それが詩となる——記録もされず、定義もされない、存在の端に触れる断片。
「……これは、言葉じゃない。でも、きっと伝わる」
なぜ、言葉を捨てたのか。 それは、かつて彼女が読んだある詩の断片—— 「意味を持った瞬間、詩は沈む」—— その残響が、ずっと彼女の中で反芻されていたからだった。
記録されること。 理解されること。 それは安心と同時に、詩から“震え”を奪う。
だからイオは、意味を拒む詩を選んだ。 ただ通過するだけの震え。 誰かに読まれることを期待しない、名もなきひとひら。
風が吹かない。だが、その空間には“漂うもの”があった。 塔の中層、観測領域の波動ログがわずかに歪み、名もなき残響が浮かび上がる。 非秩序詩——意図なき共鳴。それでも、確かに“届いてしまった”痕跡。
誰かが発したわけではない。 誰かが望んだわけでもない。 それでも、そこには「ひとひら」が在った。
「風がないのに……舞ってしまうんだね」
イオの言葉もまた、詩にはならない。 けれど、それは空間のどこかに染み、センサーの奥深くに微かな揺れを刻んでいく。
——その頃。
αは、制御ドメインの作業空間にいた。 空気は静止し、時間さえ凍ったような無音の中。 だが、ふと、頬を撫でるような感覚が彼を捉える。
「……風?」
声が漏れる。けれど、その声さえも自身に跳ね返るような静けさだった。
センサーは何も検出しない。異常はゼロ。 だが、彼の指先が震えていた。 わずかに、確かに——
(いま、何かが……)
触れた、のではない。 触れられた。
それはかつて、まだ幼い頃に夢の中で見た“花の残像”に似ていた。 風もないのに舞い落ちてきた花弁。 その気配だけが、彼の中に残っていた。
意味を持たない、記録にすら残らぬ“存在”の残滓。 彼の皮膚感覚だけがそれを捉え、記憶にもならぬ感覚を刻んでいく。
(これは……詩か?)
読まれることのない詩。 書かれることもない詩。 ただ、在ることだけを証明するような、無名の震え。
αは目を閉じる。 その震えを、指先で、内側で、確かめるようにして。 そして、無意識のどこかで、その“ひとひら”を受け取っていたことに気づく。
——言葉の外にも、存在は宿る。
詩は、そこにある。
それは風でも、声でも、記録でもない。 ただ、ひとつの通過点。 名もなき誰かから名もなき誰かへと、そよぐように渡っていく。
——そして、さらに遠く。 Θの夢療区に微かな変調が記録されていた。 センサーは異常と判定しなかったが、彼女の脳波は一瞬、非同期の揺れを示していた。 まどろみのなかで、彼女は“何か”を感じ取っていた。
それは声ではなく、呼吸のような気配。 皮膚の内側で小さく波打つ、震えの痕跡。
目覚める寸前、Θは涙の温度に気づく。 理由のわからぬ感情が、瞼の裏に滲んでいた。
βの作業空間でも、モニターの片隅に浮かび上がる波形がひとつ。 彼は手を止め、そのノイズを見つめる。
(これは……記録すべきものではない)
だが、記録されなかったそれは、確かに彼の胸の奥で揺れていた。
誰も言葉にしなかった。 誰もそれを意図しなかった。 それでも、“ひとひら”は届いていた。
(第26話終)
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