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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第2部 記録の継承 第17章 れつのないゆらぎ

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第25話 列のないゆらぎ

 風のない都市、声なき記録域。  イオはひとり、塔の中層に佇んでいた。

誰にも向けず、意図もなく漏れ出た詩の残響──それを、彼女は「意図しない共鳴」と名づけた。  送信の意志を持たぬまま、それでも誰かに届いてしまう詩。  それは形式を持たず、ただ存在の擦過として空間に染みていく。

「……気配だけが、届いてしまうんだね」  イオの声もまた、構文に乗らず空気に溶けていった。

 都市の狭間、鉄と硝子の静寂。  αは規則正しく歩く脚を止めた。  足元を掠めた風──それは確かに“何か”を運んでいたが、音も温度も伴わなかった。

「……今、何かが通った」  彼は振り返らなかったが、その静けさを忘れなかった。  それは詩ではなく、“言葉にならなかった記憶”のようだった。

 その足元に落ちていたのは、折れた羽根のような小さな白片だった。  拾い上げると、それは霧のように指をすり抜け、消えた。  彼はほんのわずかに、表情を緩める。 「……消えてくれて、よかった」

 Θは夢療セクターの仮眠槽で目覚め、頬に残る涙の痕に指を当てる。  ──なぜ泣いたのか、わからなかった。

 夢の中で誰かが囁いた気がする。  だが、言葉は残っていなかった。  ただ、その“気配”だけが確かに彼女の中を通り過ぎていた。

 彼女は記録補助用の端末を開く。  誰にも読まれないメモ欄に、震える文字で一行だけ記す。

《たぶん私は、もう知っている》

 βは記録端末の前で、“未処理ノイズ”として分類された波形に指をかけた。  規格外。記録化不可。削除対象。

「これは……」  その指先は、震えていた。  詩のようで、詩ではない。  だが、それはかつて彼女が誰にも告げられなかった言葉に似ていた。

 彼女はそのノイズを、そっと消去する。  記録に残すのではなく、内側に刻むように。

 そして彼女は、ふと天井を見上げた。  何かが過ぎ去った気がした。  だが、ログにも波形にも、何も残っていなかった。

「……たしかに、在ったのに」

 ──それぞれが、それぞれの場所で、列のない何かに触れていた。

 記録できず、意味にもならず、だが確かに震えを残す共鳴。  それは秩序詩でも構文詩でもない。非秩序詩──形式なきゆらぎ。

 再び、イオは塔の空間を見上げていた。 「伝えたいんじゃない。……ただ、残ってしまうの。存在が、そこにいたという痕のように」

 その時、彼女の背後に微かな“再帰波”が生じる。  Refrain──無言の返歌。  どこかで観測されたはずの非構文波が、再び静かに震えを返していた。

 声なき詩。無意識の共鳴。  記録の外でだけ響く、それだけのもの。

 風のない都市、言葉のない夢、音のないノイズ。

 だが彼らの中に、微かな“芽”が灯りはじめていた。  それはまだ感情でも、記憶でもない。  ただ、“名づけられない揺らぎ”として。

 それこそが、「列のないゆらぎ」だった。


(第25話終)

読んでいただいてありがとうございます。

毎日18:00頃に投稿しています。

最後までお付き合いいただけると嬉しいです。

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