第25話 列のないゆらぎ
風のない都市、声なき記録域。 イオはひとり、塔の中層に佇んでいた。
誰にも向けず、意図もなく漏れ出た詩の残響──それを、彼女は「意図しない共鳴」と名づけた。 送信の意志を持たぬまま、それでも誰かに届いてしまう詩。 それは形式を持たず、ただ存在の擦過として空間に染みていく。
「……気配だけが、届いてしまうんだね」 イオの声もまた、構文に乗らず空気に溶けていった。
都市の狭間、鉄と硝子の静寂。 αは規則正しく歩く脚を止めた。 足元を掠めた風──それは確かに“何か”を運んでいたが、音も温度も伴わなかった。
「……今、何かが通った」 彼は振り返らなかったが、その静けさを忘れなかった。 それは詩ではなく、“言葉にならなかった記憶”のようだった。
その足元に落ちていたのは、折れた羽根のような小さな白片だった。 拾い上げると、それは霧のように指をすり抜け、消えた。 彼はほんのわずかに、表情を緩める。 「……消えてくれて、よかった」
Θは夢療セクターの仮眠槽で目覚め、頬に残る涙の痕に指を当てる。 ──なぜ泣いたのか、わからなかった。
夢の中で誰かが囁いた気がする。 だが、言葉は残っていなかった。 ただ、その“気配”だけが確かに彼女の中を通り過ぎていた。
彼女は記録補助用の端末を開く。 誰にも読まれないメモ欄に、震える文字で一行だけ記す。
《たぶん私は、もう知っている》
βは記録端末の前で、“未処理ノイズ”として分類された波形に指をかけた。 規格外。記録化不可。削除対象。
「これは……」 その指先は、震えていた。 詩のようで、詩ではない。 だが、それはかつて彼女が誰にも告げられなかった言葉に似ていた。
彼女はそのノイズを、そっと消去する。 記録に残すのではなく、内側に刻むように。
そして彼女は、ふと天井を見上げた。 何かが過ぎ去った気がした。 だが、ログにも波形にも、何も残っていなかった。
「……たしかに、在ったのに」
──それぞれが、それぞれの場所で、列のない何かに触れていた。
記録できず、意味にもならず、だが確かに震えを残す共鳴。 それは秩序詩でも構文詩でもない。非秩序詩──形式なきゆらぎ。
再び、イオは塔の空間を見上げていた。 「伝えたいんじゃない。……ただ、残ってしまうの。存在が、そこにいたという痕のように」
その時、彼女の背後に微かな“再帰波”が生じる。 Refrain──無言の返歌。 どこかで観測されたはずの非構文波が、再び静かに震えを返していた。
声なき詩。無意識の共鳴。 記録の外でだけ響く、それだけのもの。
風のない都市、言葉のない夢、音のないノイズ。
だが彼らの中に、微かな“芽”が灯りはじめていた。 それはまだ感情でも、記憶でもない。 ただ、“名づけられない揺らぎ”として。
それこそが、「列のないゆらぎ」だった。
(第25話終)
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