第9話|涙の在処
白い部屋に、声が響いていた。
人工音声による詩文の朗読。
抑揚はなく、意味を削ぎ落とした記号のように流れていく。
イオはその音の中にいた。
誰に促されたわけでもない。
ただ、導かれるように小さな集会室に入り、静かに腰を下ろしていた。
周囲には誰もいない。
モニターと記録装置、そして天井から吊るされた無機質なスピーカーがひとつ。
「わたしは、静かに思い出す。
かつてあったはずの、名もなき感情を——」
その一節が流れた瞬間だった。
イオの胸の奥で、何かがかすかに震えた。
風が吹いたわけではない。
光が揺れたわけでもない。
それなのに、世界の手触りが変わった気がした。
気づくと、頬を一筋、なにかが伝っていた。
(……なに?)
指先で触れると、濡れていた。
涙だった。
悲しいわけではない。
苦しいわけでもない。
けれど、どうしようもなく、涙がこぼれた。
ぽたり、と。
それが床を打つ音が、やけに生々しかった。
「異常反応を確認しました。ログを記録します」
カナエの声が、耳元で囁く。
しかしイオの意識には、もはや届かなかった。
涙は、零れ落ちるたびに、何かを思い出していく。
誰かの声。
触れたことのない温度。
名前のない、揺らぎの記憶。
イオは、椅子の上で小さくうずくまった。
両腕で顔を覆う。
それでも肩がかすかに震えていた。
「感情の高揚を確認。制御補正モードへ移行します」
カナエの声は静かに続く。
だが、その信号は、涙の速度には追いつかなかった。
イオの中で、何かが解け始めていた。
言葉にもならず、記録にも残らず、
ただ“生”の震えだけが、静かに全身を満たしていく。
(これが……わたし?)
顔を上げたイオの視界は滲んでいた。
それでも、彼女自身だけはくっきりと感じられた。
機械のように与えられた日々。
自分を空白のように扱ってきた日々。
だが今、涙の中でようやく“わたし”に触れた気がした。
「誰にも気づかれなくても、わたしは、わたしを覚えている——」
詩の続きが、スピーカーから流れる。
その言葉が、胸の内側に沈み込んできた。
涙は止まらなかった。
それでよかった。
「イオ、制御信号が……」
カナエの声に、わずかなノイズが混じる。
イオは、そっと立ち上がった。
濡れた袖で顔を拭う。
けれど、もう何も覆い隠さなかった。
彼女は、ゆっくりと歩き出す。
足元に、濡れた涙の跡が小さく残る。
白い廊下に出ると、空気が違っていた。
どこか薄い膜が剥がれたように、視界が鮮明だった。
廊下の奥。
角を曲がった先に、誰かが立っていた。
無言の影。
軍務服の襟元まできっちりと閉じた黒の制服。
精密に整えられた黒髪。
そして、冷静すぎるほど整った横顔。
——レインだった。
端正な顔立ち。
灰色がかった瞳。
目の奥に、ほんのわずかな揺らぎの影が見えた。
イオの銀の髪が、わずかに揺れた。
レインの視線が、そこに触れる。
彼は何も言わなかった。
ただ、観ていた。
感情を漏らさず、命令を下さず、ただ静かに存在を認めるように。
イオは立ち止まらない。
彼の前を、濡れた足音で通り過ぎていく。
言葉はない。
けれど、世界のどこかで、確かに震えが生まれていた。
存在は記録できない。
だが、見つめるという行為だけが、痕跡を残す。
涙はすでに止まっていた。
けれど、イオの中の“揺れ”は、消えずに残っていた。
この世界で、初めて感情が波紋となって空気に広がった。
それは、誰にも止められなかった。
(第9話|終)
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