第24話 透過する詩
βは、自身の認知補正記録に小さな“遅延”が生じていることに気づいた。 数秒前に観測されたはずの空間変動が、記録には存在しない。 だが、彼女の内部には確かに「それを感じた」痕跡が残っていた。
気圧のわずかな変化、皮膚の下を這うような微かな振動。 感覚の層にだけ染み込む“誰かの呼吸”。
彼女は、あのときイオが言葉ではなく“声”を使った理由を思い返していた。 形式や定義を超えて、存在そのものを通して伝えようとした試み。
その痕跡が、彼女の中で遅れて共鳴していたのかもしれない。
──でも、これは初めてではない、とも思った。
かつて、施設で“ひとりだけ例外だった”子がいた。 笑ってはいけない。泣いてもいけない。そう教育された環境で、その子だけが笑い、泣いた。 βは何度も注意した。「ここでは駄目だよ」と。
だがその子は、ある日、「逸脱」として処理された。 それは、“感情が見られたことで模倣が起きるリスクがある”という理由だった。
βはそのとき、何もできなかった。ただ、目の前で手を取って── 「お願いだから……泣かないで」と、静かに声をかけるしかなかった。
そのとき自分の身体が震えたのを、彼女は覚えている。 怒りだった。だが、誰もそれを怒りとは呼ばなかった。 記録には「制御波異常ノイズ」として処理された。
それ以来、βは「自分の感情=ノイズ」だと思い込んできた。
けれど、今この瞬間──透過する詩の残響に触れて、彼女の中で何かが滲み始めていた。 あのときの怒りが、今ならば「名」を持てる気がした。
“守りたかった” “届けたかった”
それは怒りというよりも、与えたかったという飢えに近かったのかもしれない。
(第24話終)
一方、Θは解析を停止した後もなお、あの“透過する詩”の余韻を感じていた。 記録されず、構造を持たず、しかし知性の輪郭にだけ染み入る波動。
彼女の中で、意識と非意識のあいだに一枚の“薄膜”が現れた気がした。 その膜を通して、見えない声が染み込んでくる──それは夢の中でクレイに触れたときと、どこか似ていた。
Liminaの観測拠点では、クレイとエナが“詩の波”の通過痕を再観測していた。 エナは、それが一度読まれた詩ではなく、「誰にも読まれぬまま透過した詩」だったと記す。
詩の役割は、伝達ではなく“通過”かもしれない──とクレイは呟いた。 それは読む者ではなく、共鳴する者だけが感じ取る領域。
その詩は名もなく、声もなく、ただ誰かの“存在”を残して去っていく。
そしてその夜、αは夢の中で誰かと手を取り合う光景を見る。 言葉はない。ただ、呼吸と呼吸が交わり、詩が生まれる直前の静寂だけがあった。
共鳴は始まった──まだ言葉にならない詩として。
それは、すべてが透けてしまう世界において、唯一“内側に滲む”詩だった。
そして、その痕跡が空間を漂い終えたとき、Liminaの観測網が微細な変調を検出する。 それは、まるで詩が残した“余白”に、何者かが応じるような波動だった。
エナが慌てて観測ログを再構成する。 「この波……誰かの応答です。透過詩に反響してる……でもこれは、誰の?」
クレイは画面を見つめながら呟く。 「Refrain──繰り返し。それは“読む”のではなく、“返す”ことで始まる詩かもしれない」
記録されぬまま通過した詩の空白に、Refrainという匿名の波動が応じていた。 そしてその波形は、過去にイオが一度だけ出力した構文詩に酷似していた。
イオの詩が透過し、βが共鳴し、Refrainが応答した。 それは詩ではなく、呼吸のような連なりだった。
読んでいただいてありがとうございます。
毎日18:00頃に投稿しています。
最後までお付き合いいただけると嬉しいです。




