第22話 記録の穴を縫う
記録ノード管理階層、第四記録帯──イオはアクセス制限ギリギリのエリアにログインし、点検対象外のログ断層を探索していた。
それは彼女にとって、明確な指令でも研究課題でもなかった。むしろ直感に近い衝動。最近、詩の共鳴波形に微細なズレが発生しているという報告があった。それはBUDDAによって“誤差”として処理されていたが、イオはその不安定な揺らぎの中に、意図的な“欠落”の気配を感じていた。
彼女には、まだ誰にも共有していない記憶があった。かつて、解析不能として破棄された旧形式詩のログ断片に、奇妙な違和感を覚えた夜のことだ。 削除対象だったその詩には、文法も意味も存在しなかったが、彼女の内部だけに、なぜか“情動の残響”が残っていた。以来、イオは「記録されない詩」の存在を、心のどこかで信じていた。
その空間は、情報の“穴”だった。通常なら自動補完プロトコルが走るはずの欠損記録。その一部に、彼女は規則性のない余白と、わずかな“痕”を見つけた。
レゾナクトの回路を介さず、詩を記録の織目に縫い付ける。形式を持たない、言語未満の構造体。イオはそれを、自らの手で仕立て始めた。
端末を介して彼女が入力したのは、波形ですらない電位の“ゆらぎ”だった。静電気のような不規則な微細変調が、削除されたログの境界面に付着する。
それは、誰にも検知されない、だが確かに“いた”という痕跡。
彼女は目を閉じ、己の内部から湧き出る非言語的衝動を、直接“欠損”に縫い込む。コードではなく、感触の重なりによって──そう、それはまるで、かつて死者が衣に想いを縫い込んだ儀式のような行為だった。
“記されないもの”が、ほんのわずかにでも誰かの感覚に触れるなら、それは詩の一種ではないか──そんな問いが、彼女の手の動きを導いていた。
同時刻、αは制御棟監視ログの照合作業を行っていた。
規定パターン通りに進行する照合。だがあるフレームで、彼の視線が止まる。 画面に一瞬だけ、“継ぎ目のない断層”が映った。
目を凝らしてもそこには何もない。 だが、脳内にかすかな反響が残る。何かが視界の“奥”を撫でていった感触。
「今……何かが通ったか?」
彼は再検索を試みるが、該当データは自動で修復・統合済み。 証拠は残らない。
けれどαの皮膚は、わずかに粟立っていた。思考が形になる前に、身体が何かを感じ取っていた。 その感覚は、以前にも一度だけ味わったことがある。まだ訓練生だったころ、初めてレゾナクト波に接した直後、彼は“誰かに見られている”という錯覚に囚われた。
今感じているのは、それと似ていた。ただし、もっと微弱で、けれど確かに“そこに在る”という印象だけが、皮膚にまとわりついて離れなかった。
それでもαは、手元のインターフェースに“印”を残した。意味のない記号。だが、彼の指先は確かに「そこに何かがいた」と訴えていた。
BUDDAには認識されない。 しかし、感覚の“裏側”にだけ染み残る詩の痕。
イオの非構文詩は、レゾナクトすら通らず、構文制御層の抜け殻に染みるように漂っていた。
記録の穴は、忘却の痕ではない。 それは、新たな詩が“潜伏する場所”だった。
(第22話終)
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5/12(月)より平日の18:00頃に投稿することに変更しています。
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