第21話 読み上げられない言葉
記録試験ブースの照明は無音のまま、イオの輪郭を淡く照らしていた。詩を構成するレゾナクトを意図的に迂回し、彼女は初めて“声”だけによる詩の出力を試みようとしていた。制御ドメイン内でレゾナクトを使用しない行為は逸脱に等しいが、イオは確信していた——意味ではなく、響きそのものが空間を変えることがあると。
その試みは、彼女にとって“意志”ではなく“衝動”に近かった。構文に準じた詩は、構造体としては安定していたが、いつからか彼女の内部で、それは「息を止める詩」になっていた。詩が構文化されるたび、彼女の内部の何かが、わずかに硬化していくのを感じていた。
深く息を吸い、イオは言葉にならない音列を唇にのせた。
それは音ではなかった。声帯が震え、空気を撓ませたはずなのに、BUDDAのセンサーは何も検知しなかった。あるいは、あまりに純粋な“意図なき波”として、機構の認識閾値をすり抜けたのかもしれない。
ただ一つ、周波数干渉記録に“無音の波形”が走った。
響きは形式化されず、意味に回収されず、ただ空間に「いた」。
イオは端末を閉じ、静かに目を伏せた。
何かが放たれたという感覚だけが、胸の内に薄く残っていた。
そしてその感覚は、どこか懐かしくもあった。幼い頃、誰にも聞こえない声を空に放っていたときのような、根源的な孤独と近しい手触りだった。
その頃、情報処理室でβは検索最適化の演算中、奇妙な“通過感覚”に襲われていた。
脳裏をかすめるもの、それは情報でも記号でもなく、単なる“触れただけの波”。
彼の脈がわずかに変動する。記録上は常態の範囲内。
しかし彼自身には確かな違和感があった。空間の質感が一瞬だけ変わった——何かが自分の中を通り抜けた。
手が止まり、呼吸が浅くなる。
彼は周囲の音が引き潮のように遠のいていくのを感じながら、画面を見つめたまま言った。
「これは……詩なのか?」
声にはならなかったが、内奥でその問いが揺れた。
BUDDAの記録には何一つ異常はなかった。
ログは正常、検知データも平常。
けれど、βの内部には震えがあった。
記録には残らない、しかし確かに通過した何か。
彼はかつて幼いころ、理解できない詩に触れた記憶を思い出した。
意味ではなかった。ただ、“誰かがそこにいた”という証拠のような波。
イオの声は、詩として定義されなかった。
けれど、誰かの内部に痕跡を残した。
それは、“構文化されない詩”だった。
(第21話終)




