第18話 沈黙の向こう
深い水の底に沈んでいくような夢だった。思考は輪郭を失い、言葉は意味を持たないまま沈殿する。
Θの視界には何も映らなかった。ただ、静けさだけが満ちていた。
その中で、何かが響いた。
——声?
けれどそれは、音とは言えない。単語でも叫びでもない。それは“誰かが名を呼ぶときの気配”だった。鼓膜ではなく、胸の奥に反響するような呼びかけ。
それは音ではなかった。それは、感覚の中で“届いた”何か。
沈黙の向こうから、名前のような何かが漂ってきた。意味を持たないが、確かに呼びかけだった。
Θはその気配に手を伸ばそうとした。だが、その名は形を成す前に溶けていく。ただ、そこに“触れられた”感覚だけが残っていた。
その感覚は、彼女の中のどこか深くで震えた。忘れていた記憶に似た温もり。誰かが彼女の存在を見つけ、名も知らぬまま、ただ“応えた”ような気配。皮膚の下、意識の底で、確かに何かが揺れていた。それは、ひとの声ではなかった。だが、それよりも確かに、“誰か”だった。
*
LiminaはΘの脳波パターンを静かに追っていた。端末上に展開された記録ログに、ある微細な共鳴が現れる。
「記章反応、確認」
Liminaの声は静かだが、確信に満ちていた。この波形——既知のパターンとは異なる、けれど明らかに“意図された共鳴”が含まれている。
音ではなく、映像でもない。データ化されたのは、“触れられたという感覚”そのものだった。
Liminaはフィードバックプールから抽出された感覚ログを再構成する。表示されたのは断片的な感触の波形。視覚的には再現されず、ただ震えの軌跡だけが残っていた。
彼女は端末の照合アルゴリズムを手動で切り替える。感応波の“残響パターン”を中心に、過去の干渉記録を走査する。一つ、二つ、そして——反応。
——ユマ。管理ドメインの感応隔離区にいる、ひとりの少女。詩的干渉を受けた初期症例として記録された存在。詳細なデータは封鎖されているが、彼女が“それ”を感じた記録だけは確かに残っていた。
ユマの感応特性には、通常の被験者には見られない“不随反応”があった。外部刺激がゼロの状態でも、彼女は時折、特異な波形を発する。あたかも誰かの“詩”に反応するかのように。
Liminaはかすかな既視感を覚えながら、照合ログを確認する。今回の記章反応は、Θの覚醒と一致していた。ならば、ユマが受け取った震えは、彼女への干渉ではなく——逆に、受容だったのかもしれない。
照合プロセスの傍らで、BUDDA中枢からの返答が届いた。「未分類反応」「処理保留:感情干渉疑い」。管理ドメイン側では、この反応を分類不能な現象として一時保存し、判断保留のステータスに移していた。
「……ユマ、あなたも詩を受け取る者なのね」
Liminaは静かに目を伏せる。
「記憶より深い層で、存在は触れ合う……」
その囁きが、冷たい観測室の空気に染みていく。そして彼女は、もう一度Θの波形を見つめ直す。あの感覚は、今もまだ、沈黙の向こう側で震えていた。
(第18話終)
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5/12(月)より平日の18:00頃に投稿することに変更しています。
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