第17話 塔の下、声は漂う
記録塔中層。空調が微かに唸る音のなか、イオは記録セクター内の点検走査を進めていた。整列された記録端末と格納シリンダーが縦横無尽に組み合わさる空間。その一角を通過したとき——空気が、沈んだ。
風が消えるのではなく、沈む。温度や気圧の数値には一切の変化がない。だが、イオの感覚は明確にそれを捉えていた。風ではない。音でもない。意味もない。ただ、その場に“何か”が通過した。
まるで、この空間が誰かの“記憶”を受け取ったかのように。その“何か”が残したもの。それは形も音もないのに、確かにそこに“在った”。記録されることも、記憶にすら残らないはずの痕跡——記章。
イオは周囲を見回す。誰もいない。機器も正確に稼働している。端末も静かに待機状態のままだ。だが、空間には何かが“残っている”。皮膚の内側に触れてくる、かすかな反響。
「……漂っている」
その言葉が口をついて出た。意味のある言葉ではなかった。ただ、今この場の空間に揺れている“それ”を、そうとしか表現できなかった。詩は語られる前に存在する——その感覚が、イオの内に染み込んでいく。
イオは小さく息を吸い、再び歩を進める。塔中枢に組み込まれたBUDDA管理ドメインは、こうした微細な“共鳴”には反応しない。監視ログにも異常はなく、「処理対象外の低振幅波」として破棄されていた。
しかし、彼女の内には明らかに残響がある。沈黙の奥で何かが蠢いている。それは記録でも、情報でもなく、“存在の証”だった。
*
塔下層。冷却系統の点検とソフトウェア更新の作業中、αは端末前で静止していた。標準保守手順に沿った作業。慣れた手順、繰り返される静寂。だが、その日——
微かに、耳鳴りのようなノイズが走る。だがそれは聴覚では捉えられない種類のものだった。むしろ、存在そのものに染み込む“肯定の気配”。
孤独と沈黙に満たされたこの空間に、ふと差し込むようなものがあった。誰かが、ここに“いる”と認めたような——あるいは、名もなく在ることを、ただ抱きしめたような——
その瞬間、αの胸裏に、過去の影が揺れた。あの人——かつて彼が憧れ、求めてやまなかった存在。姿も声も今は曖昧だ。ただ、そこにあった感覚だけが、今も身体に残っている。その人のまなざし。その沈黙。その微笑み。
あの時見かけた彼女。その姿が、どこかで彼女に似ていた。名を知らず、言葉も交わさず、それでも、あの感覚が蘇るのには十分だった。
「……誰かが、何かを残していった」
口に出したその言葉すら、何を意味するのかわからない。ただ、胸の奥に余韻だけが滲んでいた。
それは言葉ではなく、空間に漂う“詩”だった。記録されない感情。定義できない想い。だが、確かに通過した“何か”。
αの視線が端末に落ちる。その表示には異常はない。だが、その沈黙こそが真実だった。詩は語られる前に、空間に染み出している。その証としての記章が、いま——塔の中を、静かに漂っていた。
塔の監視補助ログの最深部、解析優先度が最下位の記録領域には、“解釈不能な空間波形”として、この出来事の痕跡がひっそりと残されたまま、誰にも気づかれることなく眠っていた。
(第17話終)




