第16話 記録の境界
記録閲覧室の中は、冷たい光で均一に照らされていた。 棚に整然と並ぶ記録体の群れの中から、イオは指示された非公開ログを抽出し、卓上端末に読み込ませる。
「再検証任務、開始」
音声認証が完了し、端末が静かに起動した。イオは手元の操作パネルに触れ、解析対象のログを再生する。 無機質な音列が走る。文法を持たず、意味を持たず、ただ一定の周期で構成された音の連なり。 だが、その瞬間——
微かな“震え”が空間をかすめた。
空気が揺れた。端末の周囲、イオの肌に触れる空気がわずかにざわめいたように感じた。 まるで、音ではなく空間そのものが振動したかのように。 皮膚の下、骨の奥に響くような奇妙な感覚。鼓膜ではなく、神経が揺れた気がした。
音列自体は変化していない。記録にも、何の異常も残っていない。それでも、確かに「何か」があった。
それは、数日前、潜入任務の過程で感じた“揺らぎ”に、どこか似ていた。 あのとき接触した人物が放った、不可解な共鳴——説明もできず、記録もできない、ただ身体の内奥で反応した感覚。 そして今、それと同質のものが、この記録の中にも潜んでいる。
イオはふと、潜入任務にあたってジンから受けた二つの指示を思い出す。
『対象との接触が第一。だが同時に、旧記録群の再検証にも目を通せ。お前の感覚で、何か掴めるかもしれない』
『お前の“感じる力”には俺たちが届かない。だからこそ、お前が行け』
それは命令というより、彼女の感受性に賭けるような言葉だった。
イオは画面に視線を戻す。そこには無数の構文外音列が並んでいる。 どれも形式的には意味を持たず、感情を喚起するはずのない“はず”のものたち。
——では、なぜ“震えた”のか。
端末に残されたデータを再確認する。 振動は記録されていない。数値にも波形にも表れていない。 だが、イオの中にある「感覚」は、確かにそれを捉えている。
その震えは一度きりではなかった。数拍遅れて、足元に波紋のようなゆらぎが伝ってくる。感覚は消えず、しばらく肌の下に残響を残した。
「……記録されないものの痕跡」
イオは口の中で、ぽつりとそう呟く。 それは、理論でも証明でもない。ただ直感が導いた一語。
——記章。
ジンがかつて言った、存在を揺るがすものに刻まれる痕跡——その響きが、ふとよみがえる。 エンブレムと呼ばれることもあった。記録されない、しかし確かに“残るもの”。
その言葉は、思考の外側から滑り込んできた。まるで、語られることを待っていたように。 名を与えることで壊れてしまうかもしれない。だが、名を与えなければ見失ってしまう気がした。
論理でも意味でもなく、ただ存在の“震え”として現れたもの。 それは詩に近い。形にならず、定義もできない。
詩とは、言葉ではなく沈黙に宿るものかもしれない——そう思わせる何かが、そこにはあった。
イオの中に、あの三人が解き放った“何か”の余韻が、いまだ渦を巻いている。 かつてなら聞き逃していたかもしれない微細な気配。それを、今の自分は捉えられる。 その変化は、自覚の内にある。
イオは再び操作パネルに触れる。その指先が、ほんのわずかにためらった。 だが、確かめる必要があった。 偶然ではない。何かが、こちらを見ている——そんな予感があった。
ログの再再生が始まる。 空間が、また震えるかのように感じた。 それは始まりだった。 詩と記録、意味と非意味、その狭間にあるもの。 その名もまだ、定かでない“存在”への、第一歩。
(第16話終)
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5/12(月)より平日の18:00頃に投稿することに変更しています。
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