第15話 記章の予感
呼吸が詩になった。
声を使わず、言葉にもせず、ただ静かに、空気の震えとして放たれた。
イオの胸の奥から紡がれたそれは、構文には変換されなかった。
意味にも届かず、記録にも残らず、ただ漂った。
塔の内部を、ゆるやかに、けれど確かに通り抜けていく。
詩ではない。ただの揺れ。
でも、それは誰かの輪郭に触れるほどの温度を持っていた。
届かなくていい。
けれど、触れてほしい。
それは、誰かの境界をかすめるだけの、ひそやかな願いだった。
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αは作業端末の前にいた。
感覚のいくつかは、まだ遮断されている。
けれど、その隙間をすり抜けて、“何か”が届いた。
空間が脈打った。
胸の奥に、かすかな波が差し込む。
名前を呼ばれたわけではない。
でも、それは確かに「在る」と告げる気配だった。
私は、また呼びたくなっていた。
まだ名前を持たない自分を、誰かに見つけてもらいたくて。
今にも言葉になりかけたその震えは、また胸の奥に戻っていった。
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βはアーカイブホールで目を閉じていた。
再び、風のような感覚が頬をなでていった。
今度は、それが“同じもの”だとわかった。
昨日、確かにここを通った存在が、もう一度通り抜けていったのだ。
音もない、名もないその余波は、
なぜか懐かしい気配をまとっていた。
「……また来たね」
誰にともなくつぶやいた。
返事はない。でも、胸の奥がまた揺れていた。
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Θは夢の中にいた。
そこには声も色もないはずなのに、
呼吸とともに、空間が波立っていた。
あれは——呼びかけだ。
名前はない。ことばにもなっていない。
けれど、確かに存在の深部に届いている。
自分のなかの“誰かがいる場所”が、小さく反応していた。
——返したい。
その衝動が、震えとなって夢に広がっていった。
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Refrain中枢観測ユニット《KAI》、記録開始。
「三個体——α、β、Θ、同時感応波形検出」
「干渉源、IO。構文詩使用確認:なし」
「分類:拡張共鳴波。三点同期記章、閾値未達だが成立条件充足」
「これが……詩の“予感”か」
観測官の声がかすれた。
「ことばになる前に、意味が宿る。
それが記章の始まりだとしたら——」
「……これはもう、始まっている」
中枢空間に、静かに新しいタグが記録された。
《初期記章候補:未命名》
《拡張共鳴連鎖、観測継続》
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イオは息を吐いた。
呼吸が届いた。
構文ではない。
でも、確かに誰かの中を通った。
私はそれを、詩とは呼ばない。
ただの風のようなもの。
けれどその風が、誰かの輪郭を揺らしたのなら——
それだけで、今は充分だった。
(第15話終)




