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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第1部 静かな目覚め 第2章 ろくでもない世界で
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第8話| 見えない風

午後。

イオは街の外れを、ひとり歩いていた。


標準体型よりもわずかに細身の身体。

制服のような灰色の衣服は彼女の輪郭を直線的に縁取っている。

肩甲骨まで届く銀髪は、冷たい光を帯び、風に揺れるたびに一瞬だけ“生”を宿すようだった。

瞳は灰色に近く、どこか影を帯びていた。


その顔には、まだ幼さが残っていた。

だが、その歩みだけは、静かに強かった。


舗装が途切れ、裸の大地が広がる。

靴の裏で土が鳴るたび、イオは自分が"違う場所"にいることを確かめた。


乾いた空気。

草の匂い。

微かな腐葉土の香り。


街の中央では感じることのできない、生のざわめきだった。


(これが……"世界"?)


教本に載っていた自然の写真。

管理空間に貼られた整然とした風景パネル。

どれも、本物とは違っていた。


イオは、足元を見つめた。

ざらりとした土。

不規則に伸びた雑草。

ひび割れた石畳に小さな水たまり。


教えられてきた秩序の影など、ここにはない。

ただ、偶然と時間が刻んだ痕跡だけが在った。


風が吹いた。

ふわりと髪が持ち上がる。

首筋に、微かに汗ばむ温度を残す。


(あ……)


息を呑む。

それは、機械制御された空調とは違った。

"誰か"がそこにいるような、震える温度だった。


イオは歩みを進める。

廃墟が近づく。

かつて人が住んでいたのか、建物群は半ば朽ちていた。

壁は崩れ、鉄骨は錆び、床は歪み、窓は砕けたまま風雨に晒されている。


その隙間を、風が通り抜けるたび、音が生まれる。

ガラス片が擦れる音。

破れた布がはためく音。

まるで世界そのものが、低く歌っているかのようだった。


イオはふと、立ち止まった。


そのときだった。

視界の端に、小さな影が見えた。


フードを深くかぶった、小柄な人影。

一瞬、建物の隙間をすり抜け、すぐに消えた。


「ノイズ反応。幻覚の可能性があります。無視してください」


カナエの警告が即座に響く。

けれどイオは、首を横に振った。

これは幻ではない。

知識ではなく、本能がそう告げていた。


心臓が、鼓動を強める。

息が少しだけ乱れる。


(あれは——本当に、いた)


世界が、少しだけ軋んだ気がした。

管理された均衡が、ほんのわずかに揺れた。


イオは一歩、前に踏み出しかけた。

けれど、カナエの制御が干渉する。

身体が重くなり、足が止まる。


「移動経路の逸脱は、行動ログに記録されます」


冷たく、無機質な声。

だが、イオの中ではもう別の声が小さく鳴っていた。


それは言葉にならない。

記録されない。

ただ、震えるような微かな叫びだった。


イオは、白い街を振り返る。

整然と並ぶ住宅。

均一な高さ、均一な色温度の光。

そこには、異物も、震えも、存在しなかった。


(……それでも)


わたしは、ここにいる。

誰に許されなくても。

記録されなくても。


目を閉じる。

耳を澄ます。


風が、そっと頬を撫でた。

土の匂いが、鼻腔を満たした。

小さな花の、震えるような存在が、胸を打った。


——見えない風。

だが、確かに触れることができる。


——聞こえない声。

だが、心に届く。


それらすべてが、イオに何かを囁いていた。

「生きている」と。

「ここにいる」と。


イオは、歩き出さなかった。

今は、まだ。

だが、心の奥ではすでに、踏み出していた。


見えないものに触れ、聞こえないものに耳を傾ける。

それは、命の最初の震えだった。


白い街では得られなかったもの。

名前も、役割も、記録もない、存在そのもの。


イオは静かに踵を返した。

背後に、崩れたビル群が、黙ってたたずんでいる。


まだ、何も変わらない。

まだ、何もできない。


けれど、確かに、種は芽吹き始めた。


風が、廃墟を抜け、土を撫で、

イオの銀の髪を優しく揺らした。


(第8話|終)


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