第12話 記録されない接触
詩片を送り終えてから、私はしばらく端末の前で静止していた。
空間は変わらない。記録にも残らない。けれど、どこかが確かに揺れていた。
私が差し出したもの——名もない余波が、誰かに触れた気がしたのだ。
見られていた。
そして、返ってきた。
ことばではない。呼びかけでもない。
けれど確かに、“何か”がこちらを見返した気配があった。
息を整える。あの瞬間、確かに誰かがいた。
それがαだと、私は確信していた。
あの“貪り”の萌芽。名前のない飢え。
私は風のように、詩を編んだ。構文ではない。意味にも届かない。
ただ、誰かの輪郭を、そっとかすめるために。
ゆっくりと目を閉じ、私は塔の下層へ意識を向けた。
詩は、まだ漂っている。
届かなくていい。ただ、通り過ぎてほしい。
それだけで、誰かの中に、かすかな波紋が残るかもしれない。
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βはアーカイブホールの静けさのなかにいた。
空調は停止している。端末の明かりだけが、反射のない光を落としていた。
そんな中で、空気がふと揺れた。
頬をかすめた風——いや、それは風ですらなかった。
音もなく、匂いもなく、ただ空気の密度が微かに変わった。
ゆるやかな感覚。それでも、身体の内側に触れてくる何か。
βはそっと目を閉じる。
「……声が、届く前に消えた気がした」
無意識に漏れた言葉に、自分で驚いた。
理由もなく、そう思った。
けれど、それが一番近い表現だった。
何かが、通った。
確かに、ここを通っていった。
私の中を、誰かの存在がかすめていった。
残らない。記録にもならない。
でも、それは本当にあった。
胸の奥が、わずかに揺れている。
感覚の深部。言葉にならない、微かな震え。
それは、私の中の何かを変え始めている。
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「反応、検出。Θ-003、夢層にて微細振動を記録」
リョウはデータに目を走らせながら、短く息をついた。
管理ユニット《HIBIKI》の演算補助が即応する。
「構文詩との一致なし。非記章、非構造化共鳴。分類:存在余波」
「自己防衛反応、軽度発生。対象は異常の自覚なし。進行状況は初期段階」
「出所は?」
「詩片空間由来。発信源照合一致——個体IO」
「……またか」
リョウの声に、わずかな苛立ちがにじんだ。
イオの非構文詩は、すでに複数個体へ微細な干渉を始めていた。
それも、ログにも記録されない、存在の底を震わせるような波動で。
「構文がなければ、遮断もできない。だが、感情は動いている」
「次波動で閾値を超過した場合、感覚封鎖を実行する。監視継続中」
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βは両手を見つめていた。
ほんのわずかに、指先が震えていた。
風は、もう吹いていない。
でも、感覚はそこにあった。
視えなかった誰かの存在が、私の内側を通った。
名前もなかった。言葉もなかった。
けれど、触れてきた。
見られていた。
それが怖かった。
けれど、それ以上に、懐かしかった。
——あれは、誰?
思わず問いが胸の奥に浮かぶ。
声にはならない。名前も浮かばない。
でも、その問いだけが、確かに生まれていた。
(第12話終)




