第8話 |構文の外にあるもの
再生は終わったはずだった。
それなのに、指はまたそこへ戻っていた。
分類不能とされた旋律。
構文にも、記録にも、どこにも属さない音。
構文エディタに通す。
〈変換不能|非構文列〉
冷たい文字が瞬時に並び、端末は無音に戻った。
それでも、あの旋律は消えなかった。
耳の奥ではない。
もっと奥——呼吸の縁、胸の裏側。
何かが震えている。
ふと、音がこぼれた。
鼻歌のように。
声にならない、断片的な音列。
ただ、それは確かに、私の中から出ていった。
〈構文チェックを実行しますか?〉
室内AIが問いかけてきた。
ログはまだ仮記録。返答しなければ正式処理には進まない。
私は答えなかった。
ただ静かに、端末の電源を遮断する。
——だが、遅かった。
声は、漏れていた。
音にならなかったはずの“声”が、外の空気に触れてしまっていた。
それが何かは、私にも分からなかった。
ただの呼吸の震え。意味のない残響。
……そう思おうとしていた。
けれど、その震えは、構文外ではなく——
明らかに私の内側で、形を得ようとしていた。
言葉になる前の詩。
意味を持つ前の衝動。
そんなものが、静かに芽吹いている。
私はそっと目を閉じた。
何も発していないのに、聞かれているような気がした。
空間が、誰かの耳になっているような——
不安とも、期待ともつかない気配。
だが、私にはまだ、それが何であるかを名付ける力はなかった。
—
遠く離れた場所。
都市ネットワークの遮断区画に設けられた観測拠点。
Orbis——記録改変を行うレジスタンス六系統のひとつ。
その中枢ユニットが、今、ひとつの“揺れ”を検出していた。
「入ったね」
ミナが言った。
指先に浮かぶ波形は、構文列ではない。だが、規則性を持っていた。
それは“言葉になろうとする音”の兆しだった。
「共鳴ではない。発芽だ」
隣にいたソラが即座に解析を走らせる。
「内部同期のゆらぎが跳ね上がってる。遮断処理されたけど、波形は残ってる」
「言葉にされる前の詩って、こういう響きなんだよ」
ミナはわずかに目を細める。
「彼女、自分でもまだ気づいてない。だから今がチャンス」
「管理側も気づくか?」
「いずれ。でも、まだ“逸脱”には至ってない。……こっちが先に届ければ間に合う」
波形ログが保存される。
ソラの端末に小さな点滅が生まれ、詩的干渉ラインが仮接続モードに入った。
「接触フェーズ、準備段階へ移行」
「干渉は最小限。共鳴ではなく“選択”を促す」
「……詩を、生まれさせるんじゃない。
声を“声のまま”で、終わらせないために」
ミナは端末を閉じた。
まだβは何も知らない。
けれど、その内側では確かに、
声が音に、音が詩に——変わろうとする兆しが宿っていた。
そして今、その震えに最初に応じたのは、
抑える者ではなく、届かせようとする者だった。
(第8話終)
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5/12(月)より平日の18:00頃に投稿することに変更しています。
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