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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第2部 記録の継承 第14章 かぜにゆれる調べ

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第8話 |構文の外にあるもの

再生は終わったはずだった。

それなのに、指はまたそこへ戻っていた。

分類不能とされた旋律。

構文にも、記録にも、どこにも属さない音。


構文エディタに通す。

〈変換不能|非構文列〉

冷たい文字が瞬時に並び、端末は無音に戻った。


それでも、あの旋律は消えなかった。


耳の奥ではない。

もっと奥——呼吸の縁、胸の裏側。

何かが震えている。


ふと、音がこぼれた。


鼻歌のように。

声にならない、断片的な音列。

ただ、それは確かに、私の中から出ていった。


〈構文チェックを実行しますか?〉


室内AIが問いかけてきた。

ログはまだ仮記録。返答しなければ正式処理には進まない。


私は答えなかった。

ただ静かに、端末の電源を遮断する。


——だが、遅かった。


声は、漏れていた。

音にならなかったはずの“声”が、外の空気に触れてしまっていた。


それが何かは、私にも分からなかった。

ただの呼吸の震え。意味のない残響。

……そう思おうとしていた。


けれど、その震えは、構文外ではなく——

明らかに私の内側で、形を得ようとしていた。


言葉になる前の詩。

意味を持つ前の衝動。

そんなものが、静かに芽吹いている。


私はそっと目を閉じた。

何も発していないのに、聞かれているような気がした。

空間が、誰かの耳になっているような——

不安とも、期待ともつかない気配。


だが、私にはまだ、それが何であるかを名付ける力はなかった。



遠く離れた場所。

都市ネットワークの遮断区画に設けられた観測拠点。


Orbis——記録改変を行うレジスタンス六系統のひとつ。

その中枢ユニットが、今、ひとつの“揺れ”を検出していた。


「入ったね」

ミナが言った。

指先に浮かぶ波形は、構文列ではない。だが、規則性を持っていた。

それは“言葉になろうとする音”の兆しだった。


「共鳴ではない。発芽だ」

隣にいたソラが即座に解析を走らせる。

「内部同期のゆらぎが跳ね上がってる。遮断処理されたけど、波形は残ってる」


「言葉にされる前の詩って、こういう響きなんだよ」

ミナはわずかに目を細める。

「彼女、自分でもまだ気づいてない。だから今がチャンス」


「管理側も気づくか?」

「いずれ。でも、まだ“逸脱”には至ってない。……こっちが先に届ければ間に合う」


波形ログが保存される。

ソラの端末に小さな点滅が生まれ、詩的干渉ラインが仮接続モードに入った。


「接触フェーズ、準備段階へ移行」

「干渉は最小限。共鳴ではなく“選択”を促す」


「……詩を、生まれさせるんじゃない。

声を“声のまま”で、終わらせないために」


ミナは端末を閉じた。


まだβは何も知らない。

けれど、その内側では確かに、

声が音に、音が詩に——変わろうとする兆しが宿っていた。


そして今、その震えに最初に応じたのは、

抑える者ではなく、届かせようとする者だった。


(第8話終)


読んでいただいてありがとうございます。

5/12(月)より平日の18:00頃に投稿することに変更しています。

感想などいただけると嬉しいです。

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