第7話|意味なき音の記憶
夜間処理灯の明かりは、眠りの気配とは違う種類の静けさをつくる。
私は机に向かい、再びファイルを呼び出した。
あの旋律——分類不能とされた、言語にも構文にも馴染まない音。
だが、それは私の中で何かを微かにかき混ぜた。
イヤーピースを装着し、再生する。
そして、身を任せる。
ひとつ、ふたつ、崩れた音が落ちてきて、私の聴覚の奥に沈む。
文法はない。形式もない。ただ、ひたすらに無秩序だった。
なのに。
……懐かしいと思ってしまった。
ありえない。
私はこれを「知っている」はずがない。
だが、胸の奥、皮膚のすぐ下に近いところで、響く何かがあった。
それは記録にも、記憶にも存在しない“気配”だった。
部屋の空気が軋んだ気がした。
私はまだ、何も喋っていない。誰にも伝えていない。
それなのに、この旋律は私の中の“語られなかった何か”を、
まるで知っているかのように波打っている。
——これは、誰の声だろう?
手元の記録ログには「再生:非公式」「処理:未分類」のタグが並ぶ。
だがそんな分類が、いまの私には意味を持たないように思えた。
もしかして、これも詩なのだろうか。
そう思った瞬間、指先がふるえた。
詩。意味を超えた何か。
構文では測れないもの。
触れたら、わたしの内側が“揺れる”もの。
今夜の私は、それを「怖い」とは思わなかった。
むしろ……少し、安心していた。
何も意味を持たないものが、こんなにも私のなかで息づくことが——
そのころ、並行するふたつの観測空間で。
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管理ドメイン文化規範維持局。
記録端末に映し出されたβの再生ログを、ひとりの代表官が見つめていた。
アシル。教育思考統一局所属、階層統制官。
冷たい指先で詩的逸脱者の分類表をなぞりながら、部下に命じる。
「β。感応値が閾値を越えた。再教育処置を準備してくれ」
背後でAIユニット・千触〈SENSHOKU〉が反応する。
その声は、同期的同調のノイズのように滑らかだった。
「接触許可を。詩的傾斜の芽は早期に均等化を」
「彼女に必要なのは、“違い”じゃない。“同調”だ」
アシルは静かにそう言った。
記録社会において、逸脱とは共鳴の始まりではない。
逸脱とは、削除すべき“歪み”にすぎない。
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その一方で、Orbis——レジスタンス六系統のひとつ、修羅道に属する記録改変派の観測ユニットは、別の手段でβを追っていた。
都市ネットワーク外縁、改造された視覚遮断シェルター。
観測ログに映るβの行動パターンに、ソラが目を細める。
「干渉波、わずかに反応。呼吸と再生タイミングが同期してる」
ミナが応える。「彼女、もう感じはじめてる。管理より先に入る」
「接触じゃない。詩の“予兆”を読むだけ。彼女が詩に気づくまで」
彼らはまだ、名を名乗ることさえしない。
ただ、意味のない音が誰かの“意味”になろうとする、その瞬間を
管理に奪われぬよう、静かに見守っている。
秩序に取り込まれる前に、揺れが意味へと変わる瞬間を迎えるために。
Orbis——それは、記録に抗う者たちの名だった。
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βの部屋には何の気配もなかった。
ただ、再生を終えた端末の光が、耳の奥に余韻だけを残していた。
——けれど、感じていた。
なにかが、誰かが、“見ていた”。
“聞いていた”。
その予感だけが、確かに残っていた。
(第7話終)
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5/12(月)より平日の18:00頃に投稿することに変更しています。
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