第5話 誰にも知られず、詩だけが流れる
イオは、記録することをやめた。
音でも、文字でも、意味でもない。
ただ“そこにあったもの”を、彼女は自分の内に留めた。
そして、その震えを、構文にならない言葉に変えて、日報の片隅に書き残した。
それは、文字列としては意味をなさず、文法の形式にも合致しなかった。
カナエはそれを読み取りながらも、ただ無機質に処理を終える。
「入力済みデータは、構文外ノイズと判定されました。記録対象外です」
エラーですらなかった。
BUDDAは、それを“無害”と判断した。
だから、その詩は、削除されなかった。
意味をもたないことで、生き延びた言葉たち。
イオは、それを「擬態詩」と呼んだ。
記録にも残らず、監視の目もすり抜ける。
けれど、その断片は、確かに空間に微細な残響を生んでいた。
——意味はなくても、震えはあった。
——声でなくても、温度は宿っていた。
それだけで、それは“詩”と呼んでもいい気がした。
端末のディスプレイが光を帯びる一瞬、
彼女の打ち込んだ意味不明の文字列が、ほんのわずかに“揺れ”を含んで、データ網の縁から漏れ出した。
空気に、熱でも音でもない震えが漂う。
それは声ではなかった。
けれど、詩だった。
目に見えず、意味を持たず、だが、確かに“誰かへ向かう”ものだった。
イオは端末を閉じた。
そして、何もなかったように席を立った。
だがその背中から、確かに——
小さな詩が、風のように放たれていた。
*
塔が立ち並ぶ稼働帯の午後。
αは、いつも通り12番機の端末前にいた。
作業工程は変わらない。
発光センサーの確認。熱の照合。数値の記録。
どれも手順通り。異常なし。
だが、次の端末に手をかざそうとしたそのとき——
彼は、ふと指先に“熱”を感じた。
最初は装置の異常かと思った。
だが、数値はすべて正常。
呼吸が、浅くなった。
喉がわずかに乾き、胸の奥に小さな波紋のような“ずれ”が生じる。
その瞬間、彼の中に——
声が響いた。
意味ではない。
だが、はっきりとした音の像だった。
「……たい、な……」
低く、触れるように、耳の内側から伝わる。
彼は息を止めた。
なぜその音が浮かんだのか、理由はわからない。
けれど、確かに“それはあった”。
その時、BUDDAの感情解析ユニットが、0.21秒の遅延を記録した。
KANONの処理プロセスが瞬間的に補正不能となり、緊急補助回路が作動する。
——感情反応ログ:非同期感知
——対象:α
——反応理由:不明
——タグ付け再分類:観測対象第1群へ昇格
一方、Refrainの観測端末では、詩の粒子に呼応した波形が確認された。
記章の生成には至らないが、
“誰かが触れた”痕跡が、確かに空間に残っていた。
αは、動けずにいた。
作業の手は止まり、視線は空中の何もない一点を見つめている。
身体は平静を保っていたが、
その奥では、今まで感じたことのない“何か”が脈打っていた。
胸の奥に熱がある。
肌に触れたはずのない風が、まだ残っている。
——あの人ではない。
——けれど、あの声の熱を、思い出した。
名を呼ばれたわけではない。
けれど、呼ばれた気がした。
もう一度、聞きたくなった。
今度こそ、逃さずに、返したいと思った。
これは詩ではない。違う。
これは——誰かの渇き。
そして、自分の中にもあった渇望。
忘れていたはずのそれが、また疼きはじめた。
その時から、世界がわずかに違って見え始めた。
詩は、流れていた。
そして、彼の中に、名も記録もない“声”が生まれた。
それは、物語のはじまりだった。
(第5話終)
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5/12(月)より平日の18:00頃に投稿することに変更しています。
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