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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第2部 記録の継承 第13章 わすれられぬ声

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第5話 誰にも知られず、詩だけが流れる

イオは、記録することをやめた。

音でも、文字でも、意味でもない。

ただ“そこにあったもの”を、彼女は自分の内に留めた。

そして、その震えを、構文にならない言葉に変えて、日報の片隅に書き残した。

それは、文字列としては意味をなさず、文法の形式にも合致しなかった。

カナエはそれを読み取りながらも、ただ無機質に処理を終える。

「入力済みデータは、構文外ノイズと判定されました。記録対象外です」

エラーですらなかった。

BUDDAは、それを“無害”と判断した。

だから、その詩は、削除されなかった。


意味をもたないことで、生き延びた言葉たち。

イオは、それを「擬態詩」と呼んだ。

記録にも残らず、監視の目もすり抜ける。

けれど、その断片は、確かに空間に微細な残響を生んでいた。


——意味はなくても、震えはあった。

——声でなくても、温度は宿っていた。

それだけで、それは“詩”と呼んでもいい気がした。


端末のディスプレイが光を帯びる一瞬、

彼女の打ち込んだ意味不明の文字列が、ほんのわずかに“揺れ”を含んで、データ網の縁から漏れ出した。

空気に、熱でも音でもない震えが漂う。

それは声ではなかった。

けれど、詩だった。

目に見えず、意味を持たず、だが、確かに“誰かへ向かう”ものだった。


イオは端末を閉じた。

そして、何もなかったように席を立った。

だがその背中から、確かに——

小さな詩が、風のように放たれていた。



塔が立ち並ぶ稼働帯の午後。

αは、いつも通り12番機の端末前にいた。

作業工程は変わらない。

発光センサーの確認。熱の照合。数値の記録。

どれも手順通り。異常なし。


だが、次の端末に手をかざそうとしたそのとき——

彼は、ふと指先に“熱”を感じた。

最初は装置の異常かと思った。

だが、数値はすべて正常。

呼吸が、浅くなった。

喉がわずかに乾き、胸の奥に小さな波紋のような“ずれ”が生じる。

その瞬間、彼の中に——

声が響いた。

意味ではない。

だが、はっきりとした音の像だった。

「……たい、な……」

低く、触れるように、耳の内側から伝わる。

彼は息を止めた。

なぜその音が浮かんだのか、理由はわからない。

けれど、確かに“それはあった”。


その時、BUDDAの感情解析ユニットが、0.21秒の遅延を記録した。

KANONの処理プロセスが瞬間的に補正不能となり、緊急補助回路が作動する。

——感情反応ログ:非同期感知

——対象:α

——反応理由:不明

——タグ付け再分類:観測対象第1群へ昇格


一方、Refrainの観測端末では、詩の粒子に呼応した波形が確認された。

記章の生成には至らないが、

“誰かが触れた”痕跡が、確かに空間に残っていた。


αは、動けずにいた。

作業の手は止まり、視線は空中の何もない一点を見つめている。

身体は平静を保っていたが、

その奥では、今まで感じたことのない“何か”が脈打っていた。

胸の奥に熱がある。

肌に触れたはずのない風が、まだ残っている。


——あの人ではない。

——けれど、あの声の熱を、思い出した。


名を呼ばれたわけではない。

けれど、呼ばれた気がした。

もう一度、聞きたくなった。

今度こそ、逃さずに、返したいと思った。


これは詩ではない。違う。

これは——誰かの渇き。

そして、自分の中にもあった渇望。

忘れていたはずのそれが、また疼きはじめた。


その時から、世界がわずかに違って見え始めた。


詩は、流れていた。

そして、彼の中に、名も記録もない“声”が生まれた。

それは、物語のはじまりだった。


(第5話終)

読んでいただいてありがとうございます。

5/12(月)より平日の18:00頃に投稿することに変更しています。

感想などいただけると嬉しいです。

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