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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第2部 記録の継承 第13章 わすれられぬ声

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第3話 存在しない痕跡

イオは、震えの痕跡を再現しようとしていた。


端末に向かい、昨日耳に触れたあの断片を、何とか文字に変えようとする。

「た」「い」「な」——あの瞬間、確かに聞こえたはずの音。

だが並べた瞬間、それはただの音節に変わり、余韻は消えた。

録音しても、再生しても、震えは戻ってこない。

それは、外の世界に出た瞬間に消えてしまう。

彼女の中にだけ、まだ残っているというのに。


カナエは冷静に告げる。

「再現試行、記録可能性なし。認知誤差範囲内と判断されます」


でも、イオにはわかっていた。

それは誤差ではない。誤認でもない。

「音」でも「意味」でもない、名もない存在の痕跡。

記録できない。けれど、確かに“ある”。

彼女はその感覚に、そっと名前をつける。

——存在しない痕跡。

呼吸の奥に残った熱。

それが、自分の中にだけ残るものだと知ったとき、彼女は初めて“記録されない何か”に触れた気がした。


【Refrain観測記録|09:42:18】

——観測対象I-09、構文処理後の内的認知波形に0.28秒の非同期。

——感情波との乖離、閾値未満。

——干渉波形β類似パターン。

——タグ更新:感応候補 → 共鳴予備対象。

※干渉連鎖未確認、記章生成段階未達。追加観測を継続する。



夜、αは静かに目を開けていた。


就寝時刻は過ぎていた。制御ユニットは睡眠波形に入っていたが、

意識の輪郭だけが、ぼんやりと、滲んでいた。

耳の奥が、ざわついていた。

それは音ではなかった。

ただ、静かな空気の中で、“期待のようなもの”が震えていた。


——たいな。


その断片が、意識の深いところから浮かび上がったとき、

彼の身体が、ごくわずかに反応した。

呼吸が、ほんの一瞬だけ、遅れた。

その瞬間、αの記憶は、静かに過去へと沈んでいった。



“できて当然”だった。

誰よりも早く覚え、正確に動いた。

だが褒められることも、叱られることもなかった。

それが“優等”というものだと教えられていた。


——けれど、一度だけ、逸れた。

低温域で作業中、補助員の一人が端末凍結に巻き込まれ、軽度の凍傷を負った。

周囲は自動停止に移行し、全作業が一時中断された。

そのときαは、予定を逸脱し、自ら代行作業を申し出た。

気温は氷点下22度。手袋は制限装備。長時間の端末接触は皮膚障害を伴うリスクがあった。

だが彼は進み出て、何も言わず端末を再起動させた。


「ぼくが、やったよ」

その一言に込めたのは、証明ではなく、願いだった。


返ってきたのは、静かな却下。

「感情で動いたのか? それは、誤作動だ」


作業記録から、αの行動は抹消された。

代行の記録も残らず、補助員は別の担当により保護されたと修正された。

彼の“行為”も、“願い”も、“記録”されなかった。


その夜、彼は倉庫の片隅に座っていた。

誰にも気づかれずにいる静けさの中で、

彼は自分の存在が“いてもいなくても変わらないもの”なのだと、初めて理解した。


それ以来、彼は求めることをやめた。

視線を避け、期待しないことを覚えた。

——それが、適正。

間違いのない日々だった。

だが、空虚だった。



彼女は、記録されていなかった。

名は消え、記録からも削除された。

けれど、αの中からだけは消えなかった。


彼女は、笑った。

どんな規則の中でも、まるで空気の縫い目に入り込むように、ほつれを見つけて笑った。

冷たい作業音のなかで、それだけが、あたたかかった。


αは、彼女の言葉をすべて覚えようとした。

歩き方を真似て、沈黙の仕方まで模倣した。

作業を終えた廊下で、彼女がつぶやいた一節を、何度も何度も、頭の中で再生した。

意味はわからなかった。ただ、欲しかった。

その声が、自分に向いてくれるとき、自分の輪郭が確かになる気がしていた。


——欲しい。

そばにいたい、話したい、名を呼ばれたい。

それが“むさぼり”であると気づいたのは、ずっと後だった。


ある日、彼女は告発された。

間違った記録を保持していたと。

αは知っていた。

彼女がいつか拾った、小さな紙片のことを。

意味のない詩。けれど、それをずっと大切にしていたことを。


彼は知っていた。

それを黙っていればよかった。

でも、恐れていた。

自分まで、排除されるのが怖かった。

だから、証言した。

「自分は知らない。彼女とは関係ない」


その声だけが、記録に残った。

彼女の姿も、言葉も、存在も——消えた。



そして今。


配給所の壁際、誰とも目を合わせず作業するイオの姿。

その背中の線、仕草の隙間、音の中の沈黙。

それが、あの人に、似ていた。


違う。わかっている。

けれど、思い出す。

手を伸ばしたかったあの夜のこと。

声をかけられなかった、最後の沈黙。


——欲しい。


過去に失ったものを、もう一度なぞるように。

失った言葉の余韻を、取り返すように。


胸の奥が、熱を帯びた。

それが“むさぼり”だと、また気づいてしまったとしても。

彼は確かに、いま、そう思ってしまったのだ。


——あの声が、もう一度聞きたい。

——今度は、自分に向けて。


(第3話終)


読んでいただいてありがとうございます。

5/12(月)より平日の18:00頃に投稿することに変更しています。

感想などいただけると嬉しいです。

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