第3話 存在しない痕跡
イオは、震えの痕跡を再現しようとしていた。
端末に向かい、昨日耳に触れたあの断片を、何とか文字に変えようとする。
「た」「い」「な」——あの瞬間、確かに聞こえたはずの音。
だが並べた瞬間、それはただの音節に変わり、余韻は消えた。
録音しても、再生しても、震えは戻ってこない。
それは、外の世界に出た瞬間に消えてしまう。
彼女の中にだけ、まだ残っているというのに。
カナエは冷静に告げる。
「再現試行、記録可能性なし。認知誤差範囲内と判断されます」
でも、イオにはわかっていた。
それは誤差ではない。誤認でもない。
「音」でも「意味」でもない、名もない存在の痕跡。
記録できない。けれど、確かに“ある”。
彼女はその感覚に、そっと名前をつける。
——存在しない痕跡。
呼吸の奥に残った熱。
それが、自分の中にだけ残るものだと知ったとき、彼女は初めて“記録されない何か”に触れた気がした。
【Refrain観測記録|09:42:18】
——観測対象I-09、構文処理後の内的認知波形に0.28秒の非同期。
——感情波との乖離、閾値未満。
——干渉波形β類似パターン。
——タグ更新:感応候補 → 共鳴予備対象。
※干渉連鎖未確認、記章生成段階未達。追加観測を継続する。
*
夜、αは静かに目を開けていた。
就寝時刻は過ぎていた。制御ユニットは睡眠波形に入っていたが、
意識の輪郭だけが、ぼんやりと、滲んでいた。
耳の奥が、ざわついていた。
それは音ではなかった。
ただ、静かな空気の中で、“期待のようなもの”が震えていた。
——たいな。
その断片が、意識の深いところから浮かび上がったとき、
彼の身体が、ごくわずかに反応した。
呼吸が、ほんの一瞬だけ、遅れた。
その瞬間、αの記憶は、静かに過去へと沈んでいった。
*
“できて当然”だった。
誰よりも早く覚え、正確に動いた。
だが褒められることも、叱られることもなかった。
それが“優等”というものだと教えられていた。
——けれど、一度だけ、逸れた。
低温域で作業中、補助員の一人が端末凍結に巻き込まれ、軽度の凍傷を負った。
周囲は自動停止に移行し、全作業が一時中断された。
そのときαは、予定を逸脱し、自ら代行作業を申し出た。
気温は氷点下22度。手袋は制限装備。長時間の端末接触は皮膚障害を伴うリスクがあった。
だが彼は進み出て、何も言わず端末を再起動させた。
「ぼくが、やったよ」
その一言に込めたのは、証明ではなく、願いだった。
返ってきたのは、静かな却下。
「感情で動いたのか? それは、誤作動だ」
作業記録から、αの行動は抹消された。
代行の記録も残らず、補助員は別の担当により保護されたと修正された。
彼の“行為”も、“願い”も、“記録”されなかった。
その夜、彼は倉庫の片隅に座っていた。
誰にも気づかれずにいる静けさの中で、
彼は自分の存在が“いてもいなくても変わらないもの”なのだと、初めて理解した。
それ以来、彼は求めることをやめた。
視線を避け、期待しないことを覚えた。
——それが、適正。
間違いのない日々だった。
だが、空虚だった。
*
彼女は、記録されていなかった。
名は消え、記録からも削除された。
けれど、αの中からだけは消えなかった。
彼女は、笑った。
どんな規則の中でも、まるで空気の縫い目に入り込むように、ほつれを見つけて笑った。
冷たい作業音のなかで、それだけが、あたたかかった。
αは、彼女の言葉をすべて覚えようとした。
歩き方を真似て、沈黙の仕方まで模倣した。
作業を終えた廊下で、彼女がつぶやいた一節を、何度も何度も、頭の中で再生した。
意味はわからなかった。ただ、欲しかった。
その声が、自分に向いてくれるとき、自分の輪郭が確かになる気がしていた。
——欲しい。
そばにいたい、話したい、名を呼ばれたい。
それが“むさぼり”であると気づいたのは、ずっと後だった。
ある日、彼女は告発された。
間違った記録を保持していたと。
αは知っていた。
彼女がいつか拾った、小さな紙片のことを。
意味のない詩。けれど、それをずっと大切にしていたことを。
彼は知っていた。
それを黙っていればよかった。
でも、恐れていた。
自分まで、排除されるのが怖かった。
だから、証言した。
「自分は知らない。彼女とは関係ない」
その声だけが、記録に残った。
彼女の姿も、言葉も、存在も——消えた。
*
そして今。
配給所の壁際、誰とも目を合わせず作業するイオの姿。
その背中の線、仕草の隙間、音の中の沈黙。
それが、あの人に、似ていた。
違う。わかっている。
けれど、思い出す。
手を伸ばしたかったあの夜のこと。
声をかけられなかった、最後の沈黙。
——欲しい。
過去に失ったものを、もう一度なぞるように。
失った言葉の余韻を、取り返すように。
胸の奥が、熱を帯びた。
それが“むさぼり”だと、また気づいてしまったとしても。
彼は確かに、いま、そう思ってしまったのだ。
——あの声が、もう一度聞きたい。
——今度は、自分に向けて。
(第3話終)
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5/12(月)より平日の18:00頃に投稿することに変更しています。
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