第2話 忘れられた声が、そこにいた
都市の中心に、塔がある。
それは空を割るようにそびえ、青白い光を根に走らせて、周囲の街区を静かに分断していた。
光は網のように地表を這い、碁盤目状の区画を規則正しく繋ぐ。
樹木の列すら、その配列から逸れることはない。
それが労働ドメイン第3セクター、中層稼働帯の標準構造だ。
ここに風はない。
空調は完璧に調整され、温度にむらはない。湿度も、匂いも、音も抑制されている。
人の気配すら、ここでは“過剰”とされる。
*
イオは、その日も定時で施設に入った。
記録処理区画の一角、区画番号B-7。昨日と同じ端末。
一見すると異常はない。だが、彼女の内側には、すでに昨日から続いている震えが残っていた。
彼女は手を置いた。冷たい金属の感触。わずかな振動。
それらはすべて、記録可能なものだった。
……そして、音がした。
“声”というには不確かで、“雑音”と呼ぶにはあまりに生きていた。
それは断片だった。意味をなさない語の並び。
「た……」「い……」「な……」
音でも言葉でもない、震えだけが残る、断片の詩。
カナエの反応は即座だった。
「構文未定義データを検出。変換処理を試行します」
機械的な構文解析が走り、端末の画面には無意味な羅列が並ぶ。
“た=単語不明” “い=変換候補なし” “な=構文解釈不能”
「再定義失敗。記録対象外ノイズとして処理されます」
それだけが残された。
イオは、静かに手を下ろした。
昨日と同じだった。記録されなかった。意味づけも、再生もできなかった。
だが、彼女の中にはまた“残って”いた。
それは記録ではない。痕跡でもない。
ただ、存在の熱のように、彼女の内側を、わずかに灯していた。
記録とは、外に向かって整える行為。
でもこれは、違った。内に向かって、沈み込むような震え。
彼女の指先に残ったその微熱は、再現も報告もできなかった。
それでも、たしかに“あった”。
——その震えは、Refrainの観測波形にも、わずかに反応を残していた。
音響共鳴に似た微細波形。記章生成には至らないが、干渉の可能性としてタグが仮付けされる。
*
——その頃、別の場所で。
労働ドメイン第3セクター。
塔の光が静かに都市を貫く、完全制御の稼働帯。
ここに風はない。
空調は完璧に調整され、温度にむらはない。湿度も、匂いも、音も抑制されている。
人の気配すら、ここでは“過剰”とされる。
私は、そこで働いている。
検査ライン12番機。ライン端末の起動ユニットを順に点検するのが任務だ。
発光センサーに手をかざし、熱変化を感知し、規定値と照合する。
異常がなければ、次の端末へ。
それを、一日、繰り返す。
話す必要はない。名乗る必要もない。
名は、最初からなかった。
制服は灰色。無地。ポケットも装飾も存在しない。
髪は短く、瞳には色のない影が落ちる。
鏡に映るその姿に、私は何の感情も抱かない。
それが“適正”というものだと教えられて育った。
識別コードは、α(アルファ)。
感情制御適正者。
幼少時の検査で、私は反応の乏しさを褒められた。
他者との違いを誇ることもなかった。
一定の脈拍。淡々とした応答。感情の波形が標準範囲に収まる者。
記録ユニットに残る数値が、私のすべてだった。
それで十分だった。
……はずだった。
最近、夜になると、耳の奥がざわつくようになった。
外部の音ではない。感情波形も、制御ユニットの閾値を超えていない。
だが、確かに何かが、私の中で——震えていた。
それが何かは、分からない。
理由も、記録も、残っていない。
都市は、変わらず静かだった。
塔の光は規則通り点滅し、交通は無音のまま滑る。
何も起きていない。何も、逸れていない。
けれど私は、一瞬、作業の呼吸を誤った。
端末の前で、ほんのわずか、息を吸うのが遅れた。
その遅れさえ、誰も気づかない。記録もされない。
逸脱とは呼ばれない。報告義務も発生しない。
けれど——私は確かに、それを“感じた”のだ。
風がないはずのこの都市で、
名もないはずの私に、
何かが、そっと触れてきたような気がした。
それが錯覚か、侵入か、あるいは……声だったのかは分からない。
だが私は、知ってしまった。
この都市の空気に、震えが生まれる瞬間があるということを。
(第2話終)
読んでいただいてありがとうございます。
5/12(月)より平日の18:00頃に投稿することに変更しています。
感想などいただけると嬉しいです。




