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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第2部 記録の継承 第13章 わすれられぬ声

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第2話 忘れられた声が、そこにいた

都市の中心に、塔がある。

それは空を割るようにそびえ、青白い光を根に走らせて、周囲の街区を静かに分断していた。

光は網のように地表を這い、碁盤目状の区画を規則正しく繋ぐ。

樹木の列すら、その配列から逸れることはない。

それが労働ドメイン第3セクター、中層稼働帯の標準構造だ。


ここに風はない。

空調は完璧に調整され、温度にむらはない。湿度も、匂いも、音も抑制されている。

人の気配すら、ここでは“過剰”とされる。



イオは、その日も定時で施設に入った。

記録処理区画の一角、区画番号B-7。昨日と同じ端末。

一見すると異常はない。だが、彼女の内側には、すでに昨日から続いている震えが残っていた。


彼女は手を置いた。冷たい金属の感触。わずかな振動。

それらはすべて、記録可能なものだった。


……そして、音がした。

“声”というには不確かで、“雑音”と呼ぶにはあまりに生きていた。

それは断片だった。意味をなさない語の並び。

「た……」「い……」「な……」

音でも言葉でもない、震えだけが残る、断片の詩。


カナエの反応は即座だった。

「構文未定義データを検出。変換処理を試行します」

機械的な構文解析が走り、端末の画面には無意味な羅列が並ぶ。

“た=単語不明” “い=変換候補なし” “な=構文解釈不能”

「再定義失敗。記録対象外ノイズとして処理されます」

それだけが残された。


イオは、静かに手を下ろした。

昨日と同じだった。記録されなかった。意味づけも、再生もできなかった。

だが、彼女の中にはまた“残って”いた。

それは記録ではない。痕跡でもない。

ただ、存在の熱のように、彼女の内側を、わずかに灯していた。


記録とは、外に向かって整える行為。

でもこれは、違った。内に向かって、沈み込むような震え。

彼女の指先に残ったその微熱は、再現も報告もできなかった。

それでも、たしかに“あった”。


——その震えは、Refrainの観測波形にも、わずかに反応を残していた。

音響共鳴に似た微細波形。記章生成には至らないが、干渉の可能性としてタグが仮付けされる。



——その頃、別の場所で。

労働ドメイン第3セクター。

塔の光が静かに都市を貫く、完全制御の稼働帯。

ここに風はない。

空調は完璧に調整され、温度にむらはない。湿度も、匂いも、音も抑制されている。

人の気配すら、ここでは“過剰”とされる。


私は、そこで働いている。

検査ライン12番機。ライン端末の起動ユニットを順に点検するのが任務だ。

発光センサーに手をかざし、熱変化を感知し、規定値と照合する。

異常がなければ、次の端末へ。

それを、一日、繰り返す。


話す必要はない。名乗る必要もない。

名は、最初からなかった。


制服は灰色。無地。ポケットも装飾も存在しない。

髪は短く、瞳には色のない影が落ちる。

鏡に映るその姿に、私は何の感情も抱かない。

それが“適正”というものだと教えられて育った。


識別コードは、α(アルファ)。

感情制御適正者。

幼少時の検査で、私は反応の乏しさを褒められた。

他者との違いを誇ることもなかった。

一定の脈拍。淡々とした応答。感情の波形が標準範囲に収まる者。

記録ユニットに残る数値が、私のすべてだった。

それで十分だった。


……はずだった。


最近、夜になると、耳の奥がざわつくようになった。

外部の音ではない。感情波形も、制御ユニットの閾値を超えていない。

だが、確かに何かが、私の中で——震えていた。

それが何かは、分からない。

理由も、記録も、残っていない。


都市は、変わらず静かだった。

塔の光は規則通り点滅し、交通は無音のまま滑る。

何も起きていない。何も、逸れていない。

けれど私は、一瞬、作業の呼吸を誤った。

端末の前で、ほんのわずか、息を吸うのが遅れた。


その遅れさえ、誰も気づかない。記録もされない。

逸脱とは呼ばれない。報告義務も発生しない。


けれど——私は確かに、それを“感じた”のだ。

風がないはずのこの都市で、

名もないはずの私に、

何かが、そっと触れてきたような気がした。

それが錯覚か、侵入か、あるいは……声だったのかは分からない。


だが私は、知ってしまった。

この都市の空気に、震えが生まれる瞬間があるということを。




(第2話終)

読んでいただいてありがとうございます。

5/12(月)より平日の18:00頃に投稿することに変更しています。

感想などいただけると嬉しいです。

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