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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第1部 静かな目覚め  第12章 をとめのことば

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第58話|ひとの背中

都市の端、風が交差する地点。

遮蔽物も記録もない、ただの空白。

けれど、そこに、立っていた。


一人の少女。

こちらに背を向けたまま、微動だにせず佇んでいる。

髪が風に揺れ、肩のあたりで流れを分けていた。


輪郭は淡く、影のようにそこに“いた”。

名前も、声もわからない。

けれど、その背中から放たれる“沈黙”は、言葉以上の気配をまとっていた。


私は言葉を持たなかった。

声をかけることもできなかった。

ただ、布を取り出し、そっと膝をついた。


足元の石が、かすかに崩れた音を立てる。

その音にすら、風が反応して揺れていく。

私は、その揺れを感じながら、布の端に指を滑らせる。


言葉は持たない。

それでも、読める詩があった。

“誰かの中に届く”ということを、もう一度信じてみたかった。


私は、詩を書いた。


>  声に出さずとも、風が運ぶ

 名を知らずとも、あなたはいた

 ふれることなく、ふれていた

 風のなかでだけ——わたしは見ていた




布が、かすかに震える。

それを確かめることなく、私はその布を風に預けた。

そっと、手を放す。


風が、ふくらみ、舞うように布を持ち上げる。

ひとつ、ふたつ、旋回したのち、

布は少女の足元へ、やわらかく落ちた。


彼女は、ゆっくりと、片膝を折る。

何も言わず、布に指を伸ばした。


そして——指先で、そっとなぞった。

詩の最後の行を。

まるで、そこにあった言葉を確かめるように。

まるで、そこに、自分の名前を見つけたように。


風が、また吹く。

少女は立ち上がり、ゆっくりとこちらに首を傾けた。

その目は見えない。

でも、私のなかで、何かが震えた。


> 「……ことばじゃないのね」




声ではなかった。

けれど、確かに聞こえた気がした。

彼女の“気配”がそう言っていた。


私は、そっと返すように、胸元に残った布を握りしめる。


> 「——ことばになる前の、なにか。

  それでも、届くと思った」




少女は、小さく息を吐いた。

風が彼女の髪を流し、輪郭を削る。

その姿は、消えていくわけではなかった。

風の一部になるように、景色のなかに溶けていった。


その直後。

背後で、ユニットの高音がひときわ大きく鳴った。


「イオ、今の——観測波長に反応がある。共鳴値、既知の閾値を越えた」

ハクの声は、感情の揺れを欠いたまま、速やかに記録モードに移行する。


「同一周波帯で、前回記録された“ユマへの詩波”と一致する要素が検出された。

 ……これは、明確な読波干渉だ。名前がなくても、記録として残せる」


私は振り返らなかった。

けれど、ハクの言葉は、確かに“結果”を示していた。

この出会いは、偶然でも、幻でもない。

風が——つないだ。


“β”。

私たちは、まだ名を知らないまま、出会った。

でも、言葉にならない詩が、たしかに交わされた。


私は布に触れた指先を見つめる。

そこに残っていた温度は、さっきまでと違っていた。


“誰か”がいた。

たしかに、風のなかで、私とふれあった。

まだ始まってもいない、誰かとの詩。

でも、それが確かに“始まり”だった。


(第58話|終)


読んでいただいてありがとうございます。

5/12(月)より平日の18:00頃に投稿することに変更しています。

感想などいただけると嬉しいです。

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