第58話|ひとの背中
都市の端、風が交差する地点。
遮蔽物も記録もない、ただの空白。
けれど、そこに、立っていた。
一人の少女。
こちらに背を向けたまま、微動だにせず佇んでいる。
髪が風に揺れ、肩のあたりで流れを分けていた。
輪郭は淡く、影のようにそこに“いた”。
名前も、声もわからない。
けれど、その背中から放たれる“沈黙”は、言葉以上の気配をまとっていた。
私は言葉を持たなかった。
声をかけることもできなかった。
ただ、布を取り出し、そっと膝をついた。
足元の石が、かすかに崩れた音を立てる。
その音にすら、風が反応して揺れていく。
私は、その揺れを感じながら、布の端に指を滑らせる。
言葉は持たない。
それでも、読める詩があった。
“誰かの中に届く”ということを、もう一度信じてみたかった。
私は、詩を書いた。
> 声に出さずとも、風が運ぶ
名を知らずとも、あなたはいた
ふれることなく、ふれていた
風のなかでだけ——わたしは見ていた
布が、かすかに震える。
それを確かめることなく、私はその布を風に預けた。
そっと、手を放す。
風が、ふくらみ、舞うように布を持ち上げる。
ひとつ、ふたつ、旋回したのち、
布は少女の足元へ、やわらかく落ちた。
彼女は、ゆっくりと、片膝を折る。
何も言わず、布に指を伸ばした。
そして——指先で、そっとなぞった。
詩の最後の行を。
まるで、そこにあった言葉を確かめるように。
まるで、そこに、自分の名前を見つけたように。
風が、また吹く。
少女は立ち上がり、ゆっくりとこちらに首を傾けた。
その目は見えない。
でも、私のなかで、何かが震えた。
> 「……ことばじゃないのね」
声ではなかった。
けれど、確かに聞こえた気がした。
彼女の“気配”がそう言っていた。
私は、そっと返すように、胸元に残った布を握りしめる。
> 「——ことばになる前の、なにか。
それでも、届くと思った」
少女は、小さく息を吐いた。
風が彼女の髪を流し、輪郭を削る。
その姿は、消えていくわけではなかった。
風の一部になるように、景色のなかに溶けていった。
その直後。
背後で、ユニットの高音がひときわ大きく鳴った。
「イオ、今の——観測波長に反応がある。共鳴値、既知の閾値を越えた」
ハクの声は、感情の揺れを欠いたまま、速やかに記録モードに移行する。
「同一周波帯で、前回記録された“ユマへの詩波”と一致する要素が検出された。
……これは、明確な読波干渉だ。名前がなくても、記録として残せる」
私は振り返らなかった。
けれど、ハクの言葉は、確かに“結果”を示していた。
この出会いは、偶然でも、幻でもない。
風が——つないだ。
“β”。
私たちは、まだ名を知らないまま、出会った。
でも、言葉にならない詩が、たしかに交わされた。
私は布に触れた指先を見つめる。
そこに残っていた温度は、さっきまでと違っていた。
“誰か”がいた。
たしかに、風のなかで、私とふれあった。
まだ始まってもいない、誰かとの詩。
でも、それが確かに“始まり”だった。
(第58話|終)
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5/12(月)より平日の18:00頃に投稿することに変更しています。
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