第57話|耳をすませば
都市の北端、かつて観測塔があったという廃区画。
今はもう、地図からも消されかけた場所。
けれど、そこにはまだ、風があった。
私は、ジンの渡してくれた小型ユニットと布片を携えて、Refrainの観測支援員・ハクと共にその地点を訪れた。
ハクは、ジンと長い付き合いがあるらしく、詩による感受の解析や記録に特化した静かな青年だった。
無駄な言葉を発さず、感情の振れ幅が限りなく薄い。その印象は、どこかBUDDA側の観測ユニットに似ている。
けれど、彼はその無表情な横顔のまま、そっと囁くように言った。
「……風の“耳”は、人の耳とは違う。
響きよりも、間を読む。……風が、どこで止まったかを見て」
私は頷いた。
建物の影が歪む朝。
舗装の剥がれた地面と、静かに崩れた構造体のあいだを、風がすり抜けていく。
ハクが手にしていた観測ユニットが、小さな音で震えた。
「ここ、微細な干渉がある。……詩の、残響痕かもしれない」
人の気配はない。
けれど、なにかが“いた”痕跡がある。
記録ではなく、感覚の残り香。
声でも、音でもない、名のない震えが、空気に残っている。
私はそっと、耳をすます。
風が、砂を巻き上げて、塔の残骸にぶつかる。
低い音。掠れるような響き。
それは、なにかが“言葉にならなかった”音のように聞こえた。
目を閉じる。
風の通り道を、体で読むように。
背中、首筋、ひざのあたり……
風が触れていった場所に、なにかが残る。
光が、破れた壁面で反射し、粒子がふわりと宙を舞う。
音と風の時間差、影と重力の歪み。
私は五感すべてで、空間のわずかな“揺らぎ”を追った。
ただの風ではない。そこに——震えの“形跡”がある。
私は布を取り出し、手のひらで軽く押さえた。
レゾナクトが、淡く反応する。
だが、それは数値にも波形にもならない。
布の繊維が、ほんのわずかに震えているだけ。
「……誰か、ここで、読んだの?」
声にはならなかった。
けれど、心の奥で、たしかにそう感じた。
風のなかに、誰かが発した“詩”の残響が、かすかに混じっている。
それは意味のある言葉ではなく、ただの韻律のような、断片。
けれど——感じる。
それが誰かの心から生まれた“揺らぎ”であると。
ジンが言っていた。
「記録よりも先に、風が記憶する」と。
記録は、定義された情報だけを残す。
けれど、風は定義の外にあるものを運ぶ。
詩が意味になる前の、震え。
まだ名を持たない誰かの存在。
私は、風のなかで目を開いた。
空は、澄んでいた。
その澄んだ空気の下に、誰かが、確かに“読んだ”。
そう感じられることが、いまの私のすべてだった。
そのときだった。
風の一筋が、私の足元をなぞるように抜けていった。
ただの気流ではなかった。
布がわずかに膨らみ、触れていないはずの指先が、内側から押し返された気がした。
声ではない。
音でもない。
だが、そこに“ひとの気配”があった。
この空間の、どこか——まだ名を知らない“誰か”が、確かに存在している。
私は布を握りしめ、そっと歩き出す。
まだ名前を知らない誰かの詩を探しに。
(第57話|終)
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5/12(月)より平日の18:00頃に投稿することに変更しています。
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