第55話|るいのない願い
喉の奥が、微かに緩んだ気がした。
張りつめていた制御の圧が、ほんのわずか、ほどける。
私は、布に触れた指先にそっと力を込める。
そこには、ライルが縫い込んだひとつの名があった。
ユマ。
かつて、夢の中で私を呼んでくれた、あのやわらかい声の主。
今度は、私が——呼ぶ番だった。
「……ユマ」
抑え込まれていた息が、詩として形を持つ。
それは、震えと祈りのあいだにある、静かな響きだった。
音にはならない。記録にも残らない。
それでも、布が震えた。風が動いた。
それは、確かに“世界”に触れた感覚だった。
──その頃、遥か遠く。
密閉された空間のなかで、ユマは静かに目を閉じていた。
一定の室温、遮断された音、遮光された壁。
そこは“眠りの場”と呼ばれる観察区であり、誰かの管理下にあることを彼女自身は知らない。
だが、その日、風が——あった。
ほんの一瞬、首筋を通り過ぎた、微かな気流。
ユマの眉がかすかに動く。
「……また、あの声」
誰に問うでもなく、唇がそう呟いた。
それは、夢の中で聞いた声と、よく似ていた。
開きかけたまぶたは、再び閉じられる。
けれど、指先が微かに動き、なにかを“触れようとする”仕草だけが残された。
ジンが持つ装置が、反応を示した。
淡く、揺らぐ波紋のような表示。
可視化された記録にはならなくても、その波長は、そこに“いた”ことを証明していた。
詩の余韻が消えたあと、ジンはゆっくりと口を開いた。
「……おまえは、正式にはまだ“レジスタンス”ではなかった」
私は、自然と彼の目を見る。
「詩は届いた。名も、記章として刻まれた。
この一連の干渉は、布、風、共鳴波を経て、確かに“記録されていない者”へと接続された。
これが——おまえに課されていた第一段階の条件だった」
彼は装置をかざし、そこに浮かぶ淡い波紋を見せた。
「形式に囚われる気はない。ただ……Refrainの中でも意見は分かれている。
イオという存在が、“詩”とどう向き合うのか。誰のために読むのか。
その確信が、今回ようやく示された」
「おめでとう。これで正式な接続が認められる」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がふいに熱くなった。
何かが剥がれ落ちたように、涙が頬を伝った。
言葉にならなかった。説明も、理由もいらなかった。
でもそれは、私にとっては確かな“願い”だった。
——るいのない、願い。
KANONの干渉は沈黙していた。
抑制波は解除されたまま、再起動の気配もない。
それでも、あの空間には緊張が残っていた。
アマネの姿もない。だが、彼女が何も感じていないとは思えなかった。
もしかすると——あの子も、どこかで風の揺らぎに触れていたのかもしれない。
私は、共鳴布を見つめた。
そこには、まだ名の温度が残っていた。
ジンは、少し声を落として言う。
「Refrainの本隊は、今、複数の地域で共鳴の痕跡を観測している。
“風のしるし”を読み取れる地点が、少しずつ増えてきているんだ」
「……誰かが、詩を?」
「もしくは、“詩を感じることができる者”が、世界のどこかで目覚めつつある。
いま我々が探しているのは、そういう“感受者”の痕跡だ。
記録には映らず、言葉にもならないが、風だけがそれを伝えている」
ジンはそう言って、手元の地図をスクロールする。
光の投影に浮かび上がった数点のマーカーが、不規則に揺れていた。
「この中の一つに、おまえが届けた詩の余波が重なった地点がある。
偶然か、必然かはわからない。だが……おまえに見てきてほしい。
“可能性を持った者”がそこにいるかどうか」
私は、布を握り直した。
布は、まだ温かかった。
名を呼んだときの、あの熱が、確かにそこに残っている。
私の詩は、風に触れた。
それはまだ、痕跡でしかない。
でもきっと——届いている。
「わたし、行きます」
その言葉が、私自身の内側に、ゆっくりと響いていった。
誰かが待っている。誰かが、言葉にならない震えを抱えている。
今度は、私が探しに行く番だ。
(第55話|終)




