第6話|白い街の朝
記憶の奥底で、小さな何かが揺れ始めます。
感情がまだ眠っている世界から、ひとつのさざめきをお届けします。
第6話 白い街の朝
朝、イオは目を覚ました。
薄い寝具の感触。天井は白く、壁もまた白い。
まるで記憶を削り取るように、何もない空間だった。
起き上がり、身を起こす。
裸足の足裏が床に触れると、微かな冷たさが皮膚に広がった。
それすらも、わずかに遅れて感知する。感覚が鈍っている——そんな気がした。
「おはようございます、イオ」
耳元に届いたのは、静かすぎる声だった。
カナエ——この世界において、彼女の唯一の"同伴者"。
柔らかく、しかし無機質な口調で、今日の予定を告げる。
——今日は、新しい生活の初日だ。
イオは黙って頷き、支給された薄灰色の服に袖を通した。
布地は軽く、わずかに体温を吸収するような質感を持つ。
だがそこにも、意匠や温もりの痕跡はなかった。
外に出る。
白い扉を押し開くと、眩しい光が一気に視界を満たした。
世界は、白かった。
建物も、道も、空の色すら、どこか白く霞んで見える。
規則正しく並んだ平屋。人影のない舗道。遠くを滑るドローンの小さな羽音。
(……ここは、何だろう?)
歩き出しながら、イオはぼんやりと思う。
きちんと整えられた街並み。空気も、温度も、完璧に調整されている。
だが、その静けさの中には、どこか不自然な空洞があった。
カナエの説明が続く。
「この第9生活圏は、最適化された住環境として設計されています。
人間工学に基づき、精神的負荷を最小限に抑える構成となっています」
機械的な声。
けれどイオには、その説明が、どこか遠くの国の物語のように聞こえた。
「歩行ルートは各自の行動予定に基づいて最適化されています。
あなたの本日午後の作業予定は、区域C-2への移動および植栽観察です」
淡々と告げられる指示。
イオは従うしかなかった。
この世界では、「選ぶ」という行為すら存在しないのだ。
一歩、また一歩、白い道を踏みしめる。
ふと、足元を滑る風を感じた。
無機質なはずの空気の中に、かすかな土の匂いが混じっている。
(……土?)
記憶にないはずの感覚が、胸の奥をかすかに震わせた。
その瞬間、イオの中に、小さな違和感が芽生えた。
この世界は完璧に見える。だが、何かが欠けている。
言葉にならない、微かな「空白」。
ドローンの羽音が遠ざかり、空気は静かになった。
ただ、イオの鼓動だけが、自分の耳に確かに聞こえていた。
——その鼓動こそが、
記録も管理もできない、生きた存在の証だった。
イオは、白い街の中を、静かに歩き続けた。
まだ何も知らないまま、けれど確かに、何かを探すように。
(第6話|終)
読んでいただいてありがとうございます。
毎週火・木・土曜日の20:00頃に更新していきたいと思います。
今後ともヨロシクお願い致します。