第53話|呼ぶ声、響かない声
名を呼ぶ詩は、私の内に満ちていた。口にする前から、もうすでに心のなかに、静かに息づいていた。
だが、それを発しようとしたとき、喉の奥がまた硬く閉じた。
空気が止まる。音が生まれない。思考よりも先に、身体が制御の反応を始めていた。
「……っ」
ただの吐息すら押し返される。呼吸は浅く、熱が胸に留まる。意識していないのに、涙腺がわずかに締まり、音にならない声が内側で反響する。
共鳴布を握る手だけが、かすかに震えていた。
その布に刻まれた名は、誰にも知られないはずの記憶だった。
それでも——私はそれを読もうとしていた。声にできなくても、読もうとしていた。
ジンの視線が、ゆっくりとこちらへ向けられる。
彼の手の中には、薄い装置があった。円盤状のそれは、外見には何の表示もなかったが、詩の波長を記録するためのものだと、以前ライルが言っていた。
喉の奥から漏れた微かな震え。
それは、空気にはならず、ただ内部で揺れただけのものだった。
——それでも、布が反応した。
指先に伝わる、ごく弱い“かすかな熱”。
その熱が、風に乗って、ジンの装置へと渡っていく。
ほんの一瞬、ジンの眉がわずかに動いた。
「今の、記録されたぞ」
そう言って、装置をこちらに傾けて見せる。
表示はないはずだった。けれどその表面に、淡い輪郭だけが光のように浮かび上がっていた。光でも文字でもない。ただ、“誰かが触れた”という感触だけがそこに残っていた。
「声じゃなくても、届いた……?」
私がそう呟いたとき、自分の身体がわずかに軽くなったことに気づいた。
声にならなくても、名は震えて、伝わった。記録もされていない。ただ、確かにそこに届いたという実感だけが、私のなかに残った。
そのときだった。
「異常揺らぎを確認。未記録領域への伝播……要注意域に指定」
KANONの声が、天井から、壁から、同時に降ってきた。無機質でありながら、微かに滲むような警戒の色を含んでいる。
「このまま詩的行為を継続した場合、感情制御領域に再干渉が発生する可能性があります。抑制を提案します」
私の喉が、再び締まる感覚を覚えた。
圧力は直接ではない。ただ、存在ごと見透かされているような、不快な圧迫だった。
「……お姉ちゃん」
もうひとつ、細く鋭い声が届く。振り返らずともわかる。アマネ。
いつの間にかその場に立っていた。制服の裾は風に揺れているのに、彼女の髪も瞳も、一切の揺らぎを見せなかった。
「お姉ちゃんは、どうして……そこまでして名を呼ぼうとするの?
それ、誰かのため? それとも、自分のため?」
その声には、感情が希薄だった。だけどそれは冷たさではなく、理解を拒むための静けさだった。
「名前を呼ぶことに意味があると思ってるの? 記録されない、消えるような声に——」
私は答えられなかった。
ただ、共鳴布を強く握った。声にならなくても、この震えがまだ私の中にある限り、それを手放すわけにはいかなかった。
KANONの干渉は、その後も続かなかった。
アマネもまた、それ以上の言葉を残さず、風のようにその場を離れていった。
私の決意を測るように、ほんの数秒間、ただ佇んでから。
「それが、詩なんだ」
ジンが、低く呟いた。
「声でなくても、言葉でなくても、誰かの内側で揺れれば、それは詩になる。共鳴とは、記録されることではなく、感じられることだ」
彼の言葉が、私の中の何かを解いた。
重く塞がっていた喉に、ほんのわずか、空気が通る。風が布を揺らし、その揺れが肌に触れる。
その感覚が、震えの代わりになるなら。
「もう一度、読んでみたい」
今度は、声を出さなくてもいいと、そう思えた。
震えを、空気に渡せばいい。
誰かのなかに、届くようにと、祈ればいい。
この手にある布は、そのための橋渡しになる。
記録されなくていい。
記憶に残らなくていい。
でも——
「届いて」
私は名を思い、布をそっと撫でた。
風の中で、その名が、確かに世界に触れた気がした。
(第53話|終)
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