表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第1部 静かな目覚め 第11章 るいのない願い

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

58/245

第53話|呼ぶ声、響かない声

名を呼ぶ詩は、私の内に満ちていた。口にする前から、もうすでに心のなかに、静かに息づいていた。


だが、それを発しようとしたとき、喉の奥がまた硬く閉じた。


空気が止まる。音が生まれない。思考よりも先に、身体が制御の反応を始めていた。


「……っ」


ただの吐息すら押し返される。呼吸は浅く、熱が胸に留まる。意識していないのに、涙腺がわずかに締まり、音にならない声が内側で反響する。


共鳴布を握る手だけが、かすかに震えていた。


その布に刻まれた名は、誰にも知られないはずの記憶だった。

それでも——私はそれを読もうとしていた。声にできなくても、読もうとしていた。


ジンの視線が、ゆっくりとこちらへ向けられる。

彼の手の中には、薄い装置があった。円盤状のそれは、外見には何の表示もなかったが、詩の波長を記録するためのものだと、以前ライルが言っていた。


喉の奥から漏れた微かな震え。

それは、空気にはならず、ただ内部で揺れただけのものだった。


——それでも、布が反応した。


指先に伝わる、ごく弱い“かすかな熱”。

その熱が、風に乗って、ジンの装置へと渡っていく。


ほんの一瞬、ジンの眉がわずかに動いた。


「今の、記録されたぞ」


そう言って、装置をこちらに傾けて見せる。

表示はないはずだった。けれどその表面に、淡い輪郭だけが光のように浮かび上がっていた。光でも文字でもない。ただ、“誰かが触れた”という感触だけがそこに残っていた。


「声じゃなくても、届いた……?」


私がそう呟いたとき、自分の身体がわずかに軽くなったことに気づいた。

声にならなくても、名は震えて、伝わった。記録もされていない。ただ、確かにそこに届いたという実感だけが、私のなかに残った。


そのときだった。


「異常揺らぎを確認。未記録領域への伝播……要注意域に指定」


KANONの声が、天井から、壁から、同時に降ってきた。無機質でありながら、微かに滲むような警戒の色を含んでいる。


「このまま詩的行為を継続した場合、感情制御領域に再干渉が発生する可能性があります。抑制を提案します」


私の喉が、再び締まる感覚を覚えた。

圧力は直接ではない。ただ、存在ごと見透かされているような、不快な圧迫だった。


「……お姉ちゃん」


もうひとつ、細く鋭い声が届く。振り返らずともわかる。アマネ。

いつの間にかその場に立っていた。制服の裾は風に揺れているのに、彼女の髪も瞳も、一切の揺らぎを見せなかった。


「お姉ちゃんは、どうして……そこまでして名を呼ぼうとするの?

それ、誰かのため? それとも、自分のため?」


その声には、感情が希薄だった。だけどそれは冷たさではなく、理解を拒むための静けさだった。


「名前を呼ぶことに意味があると思ってるの? 記録されない、消えるような声に——」


私は答えられなかった。

ただ、共鳴布を強く握った。声にならなくても、この震えがまだ私の中にある限り、それを手放すわけにはいかなかった。


KANONの干渉は、その後も続かなかった。

アマネもまた、それ以上の言葉を残さず、風のようにその場を離れていった。

私の決意を測るように、ほんの数秒間、ただ佇んでから。


「それが、詩なんだ」


ジンが、低く呟いた。


「声でなくても、言葉でなくても、誰かの内側で揺れれば、それは詩になる。共鳴とは、記録されることではなく、感じられることだ」


彼の言葉が、私の中の何かを解いた。

重く塞がっていた喉に、ほんのわずか、空気が通る。風が布を揺らし、その揺れが肌に触れる。


その感覚が、震えの代わりになるなら。


「もう一度、読んでみたい」


今度は、声を出さなくてもいいと、そう思えた。

震えを、空気に渡せばいい。

誰かのなかに、届くようにと、祈ればいい。


この手にある布は、そのための橋渡しになる。


記録されなくていい。

記憶に残らなくていい。

でも——


「届いて」


私は名を思い、布をそっと撫でた。

風の中で、その名が、確かに世界に触れた気がした。


(第53話|終)


5/6〜5日間毎日1話更新です。

よかったら読んでみてください。18:00頃公開です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ