第52話|KANONの警告
共鳴布に名が刻まれた瞬間、空気の密度がわずかに変化した。
布の表面をなぞる光が、わずかに揺れる。だがそれは、視覚ではとらえきれない波だった。指先の裏に伝わるような、ごく微細な震え。
それは、誰かの存在がここに「触れてきた」兆しのようだった。
——静寂が、歪む。
「その行為は、記録されない影響を生じさせる恐れがあります」
冷ややかに、それは告げた。
空間の中央、光も反響もしない一点に、白い輪郭が浮かび上がる。機械でも生身でもないその存在は、声の温度すら持たない。
観応——KANON。
「共鳴布に刻まれた情報は、BUDDAの意味構成処理に適合しません。当該行為は、未定義ノイズの媒介と判定されました」
言葉の一つひとつが、氷の粒のように落ちてくる。空間が静かに凍っていく。私の喉が、何かに締めつけられたように動かなくなった。
「KANON、これは——」と、ジンが口を開こうとしたとき、さらに別の声が割り込んだ。
「詩を、そんなふうに使うから……」
聞き覚えのある声音だった。
どこかで何度も聞いた、けれど、そのたびに遠ざけてきた声。
「意味のない言葉に、なぜ感動するの? その震えに、根拠はあるの?」
輪郭もないその声が、空間の端で揺れていた。
アマネ。私の「双子」だとされている少女。——その実体が、もし本当にあるのなら。
「お姉ちゃんが読もうとしているその名は、記録されない。なら、それは存在しないのと同じ。感情が揺れたって、誰も確かめられないじゃない」
声だけが私を責める。否定する。
だけど——。
「……それでも、読む」
私は、かすれた喉から言葉を押し出す。
風の通り道に、ほんの微かな振動が混じる。自分でも気づかないほど、体温が上下していた。
「“記録されない”からこそ、読まなきゃいけない。誰にも見えなくても、私は……この名を呼びたい」
KANONの視線が、私の中の変化を検知しようとするかのように、微弱な光を走らせる。
「未対応感情反応を確認。フィードバック制御を強化します——」
一瞬、視界が収束した。白い光が走り、喉元に冷たい圧力が走る。
呼吸のリズムが崩れる。涙腺にかかる制御信号が過剰に働いているのがわかった。
それでも、私は目を閉じなかった。
指先にはまだ、共鳴布の手触りが残っていた。そこには、たしかに「名」が刻まれている。
読めば、伝わるかもしれない。
意味なんてない。証明もされない。
だけど、私は——
「名前を、読む」
自分の声が、空気の中に沈んでいく。布がわずかに震え、光のようなものが宙ににじんだ。
KANONの警告が止んだ。
「……異常伝播なし。ただし、潜在共鳴の兆候を記録。継続観察対象とします」
視線は引かれた。
だがそれは、去ったのではない。
KANONも、アマネも、きっと私の中を覗いていた。見えない場所で。
布に記した名が、今どこに向かっているのかはわからない。
けれど、その名を呼ぶことは、私にとってもう恐れではなくなっていた。
名を呼ぶ。存在を揺らす。
——たとえ、それが私自身を崩していくことだとしても。
(第52話|終)
本日より5/6,5/7,5/8,5/9の5日間で1話ずつ連続投稿します。18:00頃公開予定です。
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