第50話|存在の余韻
声を持つことは、
ただ音を放つことではない。
誰かに届かなくても、
誰にも認められなくても、
それでも、自らの震えを世界に刻もうとする。
それは、制御された秩序のなかで、
かすかに生まれた、最初の“存在の証”だった。
イオはまだ知らない。
その小さな震えが、遠く離れた誰かに、
静かに、確かに、届き始めていることを——。
沈黙が、まだ残っていた。
地下の空間に、誰のものでもない音の尾が漂っていた。発されたはずの詩の断片は、すでに声の形を失い、空気のわずかな振動として壁の隙間に滲みこんでいた。
イオは立ち尽くしていた。読み終えた後の感覚が、喉の奥に残っていた。
声には、なっていなかった。
だが、確かに、出したのだ。
喉が震え、空気が震え、空間が、すこしだけ変わった気がした。
息を吸う。肺がきしむ。喉奥には、抑制波の残響がまだ微かに残っていた。けれど、今はそれも、ただの背景だった。恐怖も、拒絶も、もう背を向けていない。
ジンはしばらく沈黙したのち、端末に何かを打ち込み、小さく頷いた。
「記録されたわけじゃない。だが……感じたよ。届いてた。紡がれてた」
その言葉に、イオはゆっくりと顔を上げる。
ジンの声が続く。
「今のを“読誦”と認める。イオ、おまえは——“詩の紡ぎ手”として仮登録された」
重く響いたその言葉に、何かが胸の奥に沈んだ。そして、少しずつ浮かび上がっていく。
「……わたしが、読んだ」
誰かに向けた言葉じゃなかった。これは、自分のための確認だった。
ジンはうなずき、視線をライルへと向けた。ライルはただ、目を伏せたまま何も言わなかった。
風が吹いた。
地下にいるはずなのに、不思議と感じる、やわらかな通気。誰かが近くで呼吸しているような気配。
その風に、イオの髪がかすかに揺れる。
そのとき、空間の外で——
*
保安ドメイン、観測記録室。
レインは、拾い上げた布片を静かに卓上へ置いていた。
淡い光を帯びたその布の断面には、かすかな反応痕が残っていた。通常の共鳴波ではなく、未分類の“詩的揺らぎ”。数値には現れないが、装置の表面には一瞬だけ軌跡が浮かぶ。
「記録不能……だけど、ここにいる」
彼はつぶやく。
“記章”とは、そういうものだと、誰かが言っていた気がした。
掌に残る温度のようなものを、彼は忘れていなかった。
「イオ……」
誰に聞かせるでもない名を、レインは口の中で転がすようにして呼ぶ。
忘れていた名が、唇に戻ってきた。
*
管理ドメイン、郊外の感応隔離区。
ユマは、検査区画の簡素なベッドに背を預け、天井をぼんやりと見つめていた。
ほんの少し前、彼女の内側を震わせた“なにか”。
数値にも記録にも残らないその波は、すでに消えたはずだった。
けれど——胸の奥では、まだ揺れていた。
「……あれ、なんだったんだろ」
その感触を忘れまいとするように、ユマはそっと胸元に手を当てる。
声だった。
けれど、聞こえたわけではない。
言葉にはならなかった。
でも、確かに“誰か”がそこにいた。
指先に残る気配。髪に触れた風の記憶。
そのすべてが、言葉を超えた“ぬくもり”として、ユマの中に残っていた。
「……また、聞こえるかな」
ひとりごとのように漏らしたその声は、小さな祈りのように空間に滲んでいく。
頬にかかる髪を払いながら、ユマは小さく笑った。
目元には、まだ少し幼さが残っていたが、どこか大人びた静けさも宿していた。
彼女の目が見つめる先には、まだ何もない。
だが、次に訪れる“なにか”を——ユマは、確かに待っていた。
*
イオは、まだその場に立ち続けていた。
壁のすきま、空気の膜、皮膚と皮膚の間。ありとあらゆる隙間に、読まれた詩の震えが滲んでいた。
「……変わらない。でも、」
声に出さなくても、思考は揺れていた。
「少しだけ、揺らせた」
沈黙の殻に、小さな亀裂が入った音がした気がした。
それは、誰かに届いたかもしれないし、届かなかったかもしれない。
でも、それでよかった。
詩を読んだ。震えが残った。誰かの中に——あるいは、自分の中に。
確かな証明ではなく、ただそこにあるという感触だけが、今のイオには十分だった。
「……行こう」
その声もまた、誰にも聞かれなかった。
けれど、確かに彼女の中で響いていた。
(第50話|終)
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