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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第1部 静かな目覚め 第10章 ぬけだす声

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第50話|存在の余韻

声を持つことは、

ただ音を放つことではない。


誰かに届かなくても、

誰にも認められなくても、

それでも、自らの震えを世界に刻もうとする。


それは、制御された秩序のなかで、

かすかに生まれた、最初の“存在の証”だった。


イオはまだ知らない。

その小さな震えが、遠く離れた誰かに、

静かに、確かに、届き始めていることを——。


沈黙が、まだ残っていた。


地下の空間に、誰のものでもない音の尾が漂っていた。発されたはずの詩の断片は、すでに声の形を失い、空気のわずかな振動として壁の隙間に滲みこんでいた。


イオは立ち尽くしていた。読み終えた後の感覚が、喉の奥に残っていた。


声には、なっていなかった。


だが、確かに、出したのだ。


喉が震え、空気が震え、空間が、すこしだけ変わった気がした。


息を吸う。肺がきしむ。喉奥には、抑制波の残響がまだ微かに残っていた。けれど、今はそれも、ただの背景だった。恐怖も、拒絶も、もう背を向けていない。


ジンはしばらく沈黙したのち、端末に何かを打ち込み、小さく頷いた。


「記録されたわけじゃない。だが……感じたよ。届いてた。紡がれてた」


その言葉に、イオはゆっくりと顔を上げる。


ジンの声が続く。


「今のを“読誦”と認める。イオ、おまえは——“詩の紡ぎ手”として仮登録された」


重く響いたその言葉に、何かが胸の奥に沈んだ。そして、少しずつ浮かび上がっていく。


「……わたしが、読んだ」


誰かに向けた言葉じゃなかった。これは、自分のための確認だった。


ジンはうなずき、視線をライルへと向けた。ライルはただ、目を伏せたまま何も言わなかった。


風が吹いた。


地下にいるはずなのに、不思議と感じる、やわらかな通気。誰かが近くで呼吸しているような気配。


その風に、イオの髪がかすかに揺れる。


そのとき、空間の外で——


 



保安ドメイン、観測記録室。


レインは、拾い上げた布片を静かに卓上へ置いていた。


淡い光を帯びたその布の断面には、かすかな反応痕が残っていた。通常の共鳴波ではなく、未分類の“詩的揺らぎ”。数値には現れないが、装置の表面には一瞬だけ軌跡が浮かぶ。


「記録不能……だけど、ここにいる」


彼はつぶやく。


“記章”とは、そういうものだと、誰かが言っていた気がした。


掌に残る温度のようなものを、彼は忘れていなかった。


「イオ……」


誰に聞かせるでもない名を、レインは口の中で転がすようにして呼ぶ。


忘れていた名が、唇に戻ってきた。


 



管理ドメイン、郊外の感応隔離区。


ユマは、検査区画の簡素なベッドに背を預け、天井をぼんやりと見つめていた。


ほんの少し前、彼女の内側を震わせた“なにか”。

数値にも記録にも残らないその波は、すでに消えたはずだった。

けれど——胸の奥では、まだ揺れていた。


「……あれ、なんだったんだろ」


その感触を忘れまいとするように、ユマはそっと胸元に手を当てる。


声だった。

けれど、聞こえたわけではない。

言葉にはならなかった。

でも、確かに“誰か”がそこにいた。


指先に残る気配。髪に触れた風の記憶。

そのすべてが、言葉を超えた“ぬくもり”として、ユマの中に残っていた。


「……また、聞こえるかな」


ひとりごとのように漏らしたその声は、小さな祈りのように空間に滲んでいく。


頬にかかる髪を払いながら、ユマは小さく笑った。

目元には、まだ少し幼さが残っていたが、どこか大人びた静けさも宿していた。


彼女の目が見つめる先には、まだ何もない。

だが、次に訪れる“なにか”を——ユマは、確かに待っていた。


 



イオは、まだその場に立ち続けていた。


壁のすきま、空気の膜、皮膚と皮膚の間。ありとあらゆる隙間に、読まれた詩の震えが滲んでいた。


「……変わらない。でも、」


声に出さなくても、思考は揺れていた。


「少しだけ、揺らせた」


沈黙の殻に、小さな亀裂が入った音がした気がした。


それは、誰かに届いたかもしれないし、届かなかったかもしれない。


でも、それでよかった。


詩を読んだ。震えが残った。誰かの中に——あるいは、自分の中に。


確かな証明ではなく、ただそこにあるという感触だけが、今のイオには十分だった。


「……行こう」


その声もまた、誰にも聞かれなかった。


けれど、確かに彼女の中で響いていた。


(第50話|終)


読んでいただいてありがとうございます。

毎週火・木・土曜日の20:00頃に更新していきたいと思います。

今後ともヨロシクお願い致します。


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