第49話|声は届いていた
沈黙が戻った空間に、まだわずかな余韻が漂っていた。
イオは、発声直後の痺れるような感覚を、胸の奥で噛み締めていた。声にならない詩が、確かに世界に触れた。その実感だけが、呼吸を繋いでいた。
ジンがゆっくりと近づいてきた。彼の視線はまっすぐにイオを見ていた。
「今の干渉波、記録した。判定は——成立だ」
イオは眉をひそめた。
「……成立?」
「共鳴の痕跡が出た。十分に“記章”と認定できる。名を持たない存在が、声によって世界に印を残した。おまえは、いま“紡ぎ手”としての一歩を踏んだ」
イオの喉はまだ痛んでいた。けれど、言葉を返す代わりに、目を閉じて頷いた。自分が何者なのかはまだわからない。だが、“何かを残せた”という感覚だけは、嘘ではなかった。
「……ありがとう」
声は小さく、しかし芯があった。ジンはそれ以上、何も言わなかった。ただ手にした端末に静かにデータを刻み、振り返らずにその場を離れていった。
ライルだけが、しばらくの間イオの隣に留まっていた。
「届いたよ。あれは、ちゃんと……響いてた」
そう言って、わずかに笑ったような気がした。
*
保安ドメイン、解析室。
レインは、照明の落ちた部屋でひとり、布片を机に広げていた。非記録区で拾った、あの灰色の布。焼け焦げたような縁に、微かに波打つ痕跡。
端末がそれを“ノイズ”と断定した時、彼の指先が震えた。自分でも理由がわからなかった。ただ、何かを拒絶するように、反射的に処理を中断していた。
今、改めてその波形を解析してみても、確たる意味は見つからない。だが、視覚化された波形の一部が、脳裏にふとした記憶を呼び起こす。
「……イオ?」
その名が口をついて出た瞬間、何かが戻ってきた。
かつて共に過ごした短い日々。すぐに管理の記録から抹消された、許されない記憶。だが今、その断片が、胸の奥からふいに浮かび上がってきた。
——たしかに、彼女はそこにいた。
彼の手が、そっと布片を握りしめる。
*
管理ドメイン、郊外の感応隔離区。
ユマは、研究区画の簡素なベッドに座っていた。薄く青白い照明が天井を淡く照らしている。制御波の検査のため、彼女の感応特性は常時モニタリングされていた。
静かな空間。だが、彼女の指先がふいにぴくりと動いた。
何も起きていない。外部刺激もゼロ。だが、体の奥に、風のような“なにか”が触れた。
「……なんだろ、これ」
ユマは胸元に手を当てた。脈打つ感覚とは違う。もっと細く、もっと柔らかく、誰かの呼吸が内側に入り込んでくるようだった。
監視ユニットが波形の異常を探知しようとするが、何も出ない。数値上は、ユマは平静そのもの。
けれど、彼女の中には“それ”が届いていた。
「……これ、いいな」
その言葉は、誰にも聞かれていない。けれど、確かに世界に向けて放たれた小さな肯定だった。
彼女の視線が、曇った天井を見上げる。窓も空もないのに、どこかで何かが揺れたような気がした。
ほんの少しだけ、頬がほころんだ。
それは名前も形も持たない震え。けれどユマだけは、知っていた。
——それは、ひとの声だ。
(第49話|終)
読んでいただいてありがとうございます。
毎週火・木・土曜日の20:00頃に更新しています。
続きが気になる方はブックマークをよろしくお願いします。




