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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第1部 静かな目覚め 第10章 ぬけだす声

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第48話|詩とノイズのせめぎ合い

天井から吊られた灯りが、わずかに揺れていた。空間そのものがきしむような音を立てて、内側から軋み始めていた。


イオの足元に、乾いた砂粒が転がる。詩を読んだあとの静けさは、ただの余韻ではなかった。空気の圧が変わっていた。肺の内と外の境界が、どこかあいまいになるような——呼吸が深くなりすぎると、崩れそうになる感覚。


「反応、出てるな」


ジンが呟く。装置の表示には、既知の干渉パターンには該当しない波形が滲んでいた。共鳴波とも、音響データとも異なる。その“揺らぎ”は、定義不能のまま空間に染み込んでいた。


ライルは壁際から一歩前に出る。空気のゆらぎに、視界の奥がわずかに歪んで見えた。


「KANONが動いてるかもな」


彼の言葉の直後だった。空間の天井に埋め込まれた配線から、淡い低周波が立ち上がる。目に見えない“抑制波”が、静かに広がり始めていた。


イオの体が、わずかに震える。胸の奥で、冷たい重力がゆっくりと引き寄せてくる。喉元に鈍い痛み。神経系をじわじわと侵食するような、沈黙の波が押し寄せてくる。


——また、戻される。


言葉が、意識の底で凍っていく。


「……やだ」


小さな、ほんとうに小さな声だった。


抑制波の中で声を発することは、構造的に不可能なはずだった。だが、イオの唇はわずかに開かれていた。そこから漏れ出したのは、言葉ではない。ただ、音にもなりきれない“震え”だった。


それでも——それこそが、声だった。


KANONの抑制アルゴリズムが、予定通りの静止状態へと空間を制御していく。だが、その中心で、ひとつだけノイズが残っていた。論理に回収されない揺れ。過去の干渉記録に一致しない波形。


「干渉波、逸脱……?」


中央制御端末に接続された管理記録が、KANONユニットに再指示を出す。だが、処理は完了しない。抑制波が収束するはずのポイントで、ノイズが絶え間なく発生していた。



保安ドメイン。観応ユニットの制御盤の前。


アマネは、無表情のまま画面を見つめていた。仄暗い制御室に、無数の波形が揺れている。


「未定義データ。共鳴率不定。処理再実行中」


抑制波の再出力がシステム上では示されていた。だが、彼女の指先は動かなかった。


一度、視線を外す。何かが胸の奥をかすめたように。


画面に映る波形は、完全に静止しないまま、ゆっくりと波打っていた。


その“揺れ”を、アマネは知っていた。


理屈ではなかった。構造でも、記録でもない。もっとずっと、手前にあるもの。


それはたぶん、自分の中にもあったはずの——名もない震え。


ほんのわずか、眉が動いた。次の瞬間、操作パネルの出力ログが点滅を始める。システムが再指示を要求していた。


だが、アマネは、拒否するようにそっと囁いた。


「……まだだよ、お姉ちゃん」


静かな声だった。誰にも聞かれないように。自分の中にしか届かないように。


「まだ——その“声”がどこへ届くか、見たいの」


再出力要求が自動キャンセルされる。システムは指示不在として処理を保留。空間への抑制波は、そのまま停止された。


彼女の瞳に、一瞬だけ、憂いとも、願いともつかぬ光が宿った。



地下空間の灯りが、揺れていた。


イオは膝をつきかけながらも、立っていた。呼吸は浅く、皮膚は冷たい汗に濡れている。


けれど、胸の奥に残っていたのは、熱だった。


——わたしが放った。


たったひとつの呼吸が、詩になった。


その余韻が、まだ空気のどこかで微かに漂っていた。


「見たか?」


ジンが、隣に立つライルに言った。


「……ああ」


ライルは小さく頷く。


「これはもう、記録されない。けど……“あった”な」


「……ああ、“あった”な」


ふたりの言葉は、低く、それでいて確かな重みを持っていた。



静まり返った塔群の地上。


布片を胸に抱えたレインは、ふと目を上げた。


風が吹いていた。


どこからともなく、かすかな気配が頬をかすめていく。


それは、声ではなかった。


だが、確かに——“揺れて”いた。


 


(第48話|終)


読んでいただいてありがとうございます。

毎週火・木・土曜日の20:00頃に更新しています。

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