第47話|抑制波と声の対抗
空気が、重たく揺れていた。
地下のその空間には、本来存在するはずのない“風”がまだ微かに残っていた。イオの吐いた呼気が、空洞の壁にぶつかり、ゆるやかな波紋となって消えていく。
ジンは何も言わず、ただ目を閉じていた。ライルは背後の壁にもたれ、静かにその様子を見守っている。
イオの唇は、もう一度、そっと震えた。声にならない吐息が、詩の断片をなぞっていた。
——こたえは いらない
——ただ この声が
——あなたに とどけばいい
読誦というにはあまりにもかすかで、呼吸のようで、祈りのようだった。だが、それでも確かに、彼女の内から放たれた“何か”が空間に染み渡っていく。
その時だった。
空間の端末が微かな反応を捉えた。光点が一つ、赤く点滅する。
ジンが眉をわずかにひそめる。
「……干渉されたな」
瞬間、空間の圧が変わった。天井から吊るされた灯りが、音もなく揺れた。
壁の一角が脈動し始める。KANON——BUDDAに接続された観応ユニットが、遠隔から反応を示したのだ。異常な共鳴波を感知したシステムは、自動的に抑制波を送信し、領域の静度を回復させようとする。
冷たい波が、空間全体に満ちていく。
「——っ……」
イオは思わず膝を折りかけた。空気が、肺に入らない。呼吸が、内側から押し戻されるようだった。視界の端がにじみ、全身に痺れのような感覚が広がっていく。
「KANON……っ、応答してる……?」
ライルの声がかすれた。彼の額にも汗が浮かぶ。彼もまた、干渉に耐えているのだ。
ジンは一歩前に出た。だが、彼もすぐには動かない。
「……試されてるな。どこまで“声”を保てるか」
イオの中で、何かが軋むように鳴った。
身体が冷たくなる。喉が焼けつく。声を出すどころか、存在の輪郭すら削がれていくような感覚。だが、彼女は倒れなかった。肺の奥に残っていた空気を、細く吐き出す。
「……とどいて、よ……」
誰に? どこへ? それすらも曖昧だった。
ただ、その声は確かに“揺れ”を持っていた。
KANONの端末が、突如として警告音を発した。
「エラー発生:未定義の振動波。変数再評価中」
ジンが目を細める。
「……効いてるな。あいつは、“定義されていないもの”に弱い」
声ではない。言葉ですらない。ただ、感情の震え。イオの中から零れ落ちたその微かな“揺らぎ”が、KANONの制御アルゴリズムに誤作動を引き起こしていた。
壁の光点が乱れ、灯りがちらつく。
圧が、少しだけ緩む。ほんのわずかだが、空気が戻ってくる。
イオは唇を開いた。声が漏れる。
「こえ……わたしの……」
それは震えていた。弱く、かすかに。けれど確かに——放たれていた。
KANONの干渉波は、不安定に揺れ始めていた。
イオの声には、数値で測れない“何か”があった。
それはたぶん、ただの抵抗でも、叫びでもない。
「こえを、……かえして……」
ジンの目が、一瞬だけ揺らいだ。
その小さな声は、KANONの観測データを突き抜けて、空間に、世界に、染み入るように広がっていった。
(第47話|終)




