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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第1部 静かな目覚め 第10章 ぬけだす声

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第46話|まっすぐな風

風が吹いていた。非記録区の境界、その朽ちた塔群の狭間を、音もなくすり抜けるように。


塔壁の亀裂には、かつての警告灯の残骸が赤錆にまみれて貼りついていた。無数の瓦礫が地表を覆い、折れた鉄骨の隙間から伸びた乾いた草が、微かな風に応えるように揺れている。


レインは、崩れた塔の麓に立ち尽くしていた。ここは彼の任務区域ではない。だが、数日前に拾った微細な共鳴波のログが、どうしても気になっていた。その座標が示すのが、まさにこの場所だった。


足元に、くすんだ灰色の布片が落ちている。焼け焦げた縁には、見えない波紋のような違和があった。慎重に手に取ると、掌にかすかな震えが走る。感覚というには曖昧すぎて、記録にも残らない。だが、それは確かに“触れた”感覚だった。


「……これは」


端末が自動処理を始めようとした瞬間、レインはその動作を止めた。共鳴ログ。けれど、この震えは既存の定義に当てはまらない。未定義のもの。つまり——逸脱の兆候。


風が、またひと吹き過ぎていく。その気配に、どこかから届く“声”のようなものを感じた。耳ではなく、胸の内で。


「名も、記録も……ないのに」


知らないはずの名が、意識の奥底でざわめいた。



地下の静寂に沈む非記録区の深部。


イオは、古びた端末の並ぶ石造りの部屋で、ジンとライルに向かい合っていた。天井から吊るされた灯りが小さく揺れ、空間にかすかな影を落とす。


「声にしてみろ」


ジンの声音は穏やかだが、芯がある。命令ではなく、促しのようだった。


イオは答えず、喉元にそっと手を当てた。KANONによる制御の名残——発声の直前、思考回路が逆流するような感覚。訓練され、刷り込まれた“声を封じるための構造”が、まだ自分の中に残っている。


壁にもたれたライルが視線を送ってくる。何も言わず、ただ静かに。その沈黙が、否定ではないと知れて、かえって怖さがこみ上げた。


「……読める気がしない」


それは本心ではなかった。読めるかどうかではない。声にしたら、何かが壊れる気がして——それが怖かった。


ジンは何も言わず、小さな紙片を差し出した。そこには、震えるような筆致で詩が綴られていた。


『こたえは いらない

 ただ この声が

 あなたに とどけばいい』


紙の端がかすかにめくれ、イオの手の中で音を立てた。空気の重みが変わる。無音のはずのこの空間に、なぜか風の気配がある。


目を閉じる。深く、浅く、呼吸を繰り返す。心臓の鼓動が、どこか別のもののように響いてくる。


思考の奥で警告が点滅する。発声は逸脱——抑制回路が反応し始める。喉が焼けるように痛む。それでも、イオは唇を開いた。


声にはならなかった。けれど、吐き出された息が詩をなぞる。言葉ではなく、震えとして。


ジンの目が細められる。ライルは目を伏せ、まるでその震えを聴いているかのようだった。


イオは、ゆっくりと目を開けた。


空気が、わずかに揺れていた。


それは音ではなく、声でもなく、ただの呼吸だった。けれど、確かに“外”へと届いていた。


「……読んだな」


ジンの低い声が、余韻のように漂う。


イオの胸の奥に芽生えたもの。それはきっと、名前のない“声”。


だが、迷いも戸惑いも混ざりながら、それでも真っ直ぐに外へと放たれていた。



そのとき。


レインの手の中の布片が、かすかに震えた。


端末が再び警告を発する。


「未定義の振動波を検出。再構文を実行します」


だが、何も起きなかった。再構文は失敗した。


意味を持たない——だからこそ、それは意味を持っていた。


「……イオ」


その名が、唇の隙間から零れた。


記録には残らない。だが確かに、“何か”がいた。風が、そう告げていた。


(第46話|終)


読んでいただいてありがとうございます。

毎週火・木・土曜日の20:00頃に更新しています。

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