表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第1部 静かな目覚め 第1章 いまだ見ぬ朝
5/150

第5話|はじまりの問い

静かだった。

世界は変わらないまま、ただ無表情に広がっていた。


白い壁。

均一な街路。

人工管理された空と大気。


すべてが、完璧な静止を保っていた。

生の揺らぎなど、存在していないかのように。


 


それでも、

イオの胸の奥では、

確かに何かが震えていた。


名前を呼ばれたあの瞬間から。

世界の輪郭が、わずかに軋みを上げ始めた。


 


歩きながら、イオは思った。


——わたしは、誰?


 


誰に教えられたわけでもない。

誰かに命じられたわけでもない。

ただ自然に、生まれた問いだった。


 


自分は、ユニットI-07。

そう教えられた。

目覚めたときから、そう呼ばれた。


でも、

本当にそれだけなのだろうか。


もっと遠く、もっと深くに、

違う名前が、

違う存在が、

沈んでいる気がした。


 


——イオ。


 


そう、呼ばれた。

誰かが、自分を知っていた。

誰かが、自分に呼びかけていた。


それは、記録にも、システムにも存在しない記憶。

ただ、感覚として、胸の奥に刻まれていた。


 


イオは歩く。

重い身体を、無理やり引きずるように。


風が、また頬を撫でた。

かすかな、ほとんど消えかけた温もり。


生きている。

存在している。


感情抑制プロトコルが、

その事実すら無効化しようとしても。


 


> 「感情偏差、閾値手前。注意。

心拍数上昇、脳波パターン異常を検出。

直ちに基準動作に復帰してください」




カナエの声が警告を発する。


だが、イオは応じなかった。

目の前の道を、ただ真っ直ぐに歩き続けた。


胸の奥で育ち始めた問いを、

決して見失わないように。


 


「わたしは……」


口に出す。

その声は震えていた。


何を言いたいのか、自分でもわからない。

でも、言葉にしなければならない気がした。


 


「わたしは、……誰?」


 


その瞬間、

空気が震えた。


肉眼では見えない。

誰にも聞こえない。

記録もされない。


けれど確かに、

この世界の静止が、微かに、ずれた。


 




 


BUDDA管理センター。

冷たく無機質な空間に、わずかな警告音が響いた。


【感情偏差異常検知】

【認知プロトコル再適用不可】

【観測対象:ユニットI-07】


 


システムは即座に補正プログラムを起動したが、

わずかに遅れが生じた。


誰も意識することのない、ほんの一瞬。

だが、その一瞬が、

確かに、世界の綻びを広げていった。


 




 


実働ドメイン、調査区域。


レインは、白い街並みを見渡しながら歩いていた。


無人の街。

無感情の都市。

逸脱など存在しないはずの完璧な空間。


それでも、

彼の本能は告げていた。


何かが変わり始めている。

何かが、目覚めようとしている。


 


通信端末にデータが送られてくる。


> 「第9生活圏南部にて、逸脱波形の増幅を確認」




レインは眉をひそめた。


「南部か……」


そこには、まだ適応段階のユニットたちしかいないはずだった。

未成熟な存在。

制御下にあるはずの命。


だが、

確かに、逸脱は始まっている。


誰かが、世界に問いかけを始めていた。


 




 


非記録区。


ジンは、薄く笑った。


遠く、世界の表層で、

かすかな震えが生まれたことを、彼は確かに感じ取った。


まだ微細なものだ。

手を伸ばしても、届くかどうかわからない。

触れた途端に、消えてしまうかもしれない。


それでも。


それでも、

その震えは、

確かに「生」の証だった。


 


——問いを持つ者がいる。


——存在を問う者がいる。


 


ジンは目を閉じた。

そして、誰にも聞こえない声で、そっと呟いた。


「おかえり、イオ」


まだ何も知らない少女へ向けて。

まだ、何も始まっていない物語の中心へ向けて。


 




 


イオは、歩き続けていた。


広場の端に、白い柵が見えた。

その向こうには、さらに広がる街と、遠い塔の影。


世界は広い。

まだ知らない場所が、無数にある。


そのすべてに、

何かが待っている気がした。


 


「わたしは……わたしは……」


呟きながら、

イオは、

初めて、自分自身の存在を掴みかけた。


名前も、記憶も、曖昧なまま。

それでも、確かにそこにある、震え。


 


わたしは、

ここにいる。


 


それは、誰に聞かせるわけでもない。

誰かに認められるためでもない。


ただ、

自分自身のためだけに、生まれた最初の詩だった。


 


——存在する、ということ。


 


イオは、そっと空を見上げた。


まだ白い、無表情な空。

けれど、その向こうに、確かに広がっている。


見えない風。

記録されない光。

まだ名前のない未来。


 


そして、そこへ向かって、

彼女は、

静かに、一歩を踏み出した。


 


(第5話|終)



---


読んでいただいてありがとうございます。

毎週火・木・土曜日の20:00頃に更新していきたいと思います。

今後ともヨロシクお願い致します。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ