第5話|はじまりの問い
静かだった。
世界は変わらないまま、ただ無表情に広がっていた。
白い壁。
均一な街路。
人工管理された空と大気。
すべてが、完璧な静止を保っていた。
生の揺らぎなど、存在していないかのように。
それでも、
イオの胸の奥では、
確かに何かが震えていた。
名前を呼ばれたあの瞬間から。
世界の輪郭が、わずかに軋みを上げ始めた。
歩きながら、イオは思った。
——わたしは、誰?
誰に教えられたわけでもない。
誰かに命じられたわけでもない。
ただ自然に、生まれた問いだった。
自分は、ユニットI-07。
そう教えられた。
目覚めたときから、そう呼ばれた。
でも、
本当にそれだけなのだろうか。
もっと遠く、もっと深くに、
違う名前が、
違う存在が、
沈んでいる気がした。
——イオ。
そう、呼ばれた。
誰かが、自分を知っていた。
誰かが、自分に呼びかけていた。
それは、記録にも、システムにも存在しない記憶。
ただ、感覚として、胸の奥に刻まれていた。
イオは歩く。
重い身体を、無理やり引きずるように。
風が、また頬を撫でた。
かすかな、ほとんど消えかけた温もり。
生きている。
存在している。
感情抑制プロトコルが、
その事実すら無効化しようとしても。
> 「感情偏差、閾値手前。注意。
心拍数上昇、脳波パターン異常を検出。
直ちに基準動作に復帰してください」
カナエの声が警告を発する。
だが、イオは応じなかった。
目の前の道を、ただ真っ直ぐに歩き続けた。
胸の奥で育ち始めた問いを、
決して見失わないように。
「わたしは……」
口に出す。
その声は震えていた。
何を言いたいのか、自分でもわからない。
でも、言葉にしなければならない気がした。
「わたしは、……誰?」
その瞬間、
空気が震えた。
肉眼では見えない。
誰にも聞こえない。
記録もされない。
けれど確かに、
この世界の静止が、微かに、ずれた。
BUDDA管理センター。
冷たく無機質な空間に、わずかな警告音が響いた。
【感情偏差異常検知】
【認知プロトコル再適用不可】
【観測対象:ユニットI-07】
システムは即座に補正プログラムを起動したが、
わずかに遅れが生じた。
誰も意識することのない、ほんの一瞬。
だが、その一瞬が、
確かに、世界の綻びを広げていった。
実働ドメイン、調査区域。
レインは、白い街並みを見渡しながら歩いていた。
無人の街。
無感情の都市。
逸脱など存在しないはずの完璧な空間。
それでも、
彼の本能は告げていた。
何かが変わり始めている。
何かが、目覚めようとしている。
通信端末にデータが送られてくる。
> 「第9生活圏南部にて、逸脱波形の増幅を確認」
レインは眉をひそめた。
「南部か……」
そこには、まだ適応段階のユニットたちしかいないはずだった。
未成熟な存在。
制御下にあるはずの命。
だが、
確かに、逸脱は始まっている。
誰かが、世界に問いかけを始めていた。
非記録区。
ジンは、薄く笑った。
遠く、世界の表層で、
かすかな震えが生まれたことを、彼は確かに感じ取った。
まだ微細なものだ。
手を伸ばしても、届くかどうかわからない。
触れた途端に、消えてしまうかもしれない。
それでも。
それでも、
その震えは、
確かに「生」の証だった。
——問いを持つ者がいる。
——存在を問う者がいる。
ジンは目を閉じた。
そして、誰にも聞こえない声で、そっと呟いた。
「おかえり、イオ」
まだ何も知らない少女へ向けて。
まだ、何も始まっていない物語の中心へ向けて。
イオは、歩き続けていた。
広場の端に、白い柵が見えた。
その向こうには、さらに広がる街と、遠い塔の影。
世界は広い。
まだ知らない場所が、無数にある。
そのすべてに、
何かが待っている気がした。
「わたしは……わたしは……」
呟きながら、
イオは、
初めて、自分自身の存在を掴みかけた。
名前も、記憶も、曖昧なまま。
それでも、確かにそこにある、震え。
わたしは、
ここにいる。
それは、誰に聞かせるわけでもない。
誰かに認められるためでもない。
ただ、
自分自身のためだけに、生まれた最初の詩だった。
——存在する、ということ。
イオは、そっと空を見上げた。
まだ白い、無表情な空。
けれど、その向こうに、確かに広がっている。
見えない風。
記録されない光。
まだ名前のない未来。
そして、そこへ向かって、
彼女は、
静かに、一歩を踏み出した。
(第5話|終)
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