第44話|涙の記号
目の奥が、じんと熱かった。
こぼれそうなものが、喉の奥でつかえていた。
けれど、その瞬間――冷たい何かが、内側から伸びてきて、それをせき止めた。
《涙腺フィードバック制御、作動開始》
《情動ログ:異常値。詩的要素検出、要再定義》
《KANONユニット、調整パラメータを最適化中》
声が、響いた。脳に、直接。
……ああ、またか。
涙すら、私は自由に流せない。
「お姉ちゃん、それ……本当に、あなたの涙なの?」
振り返った先にいたのは、アマネだった。
相変わらず完璧に整った顔。ゆるやかに傾けられた首。微笑のかたちをした、空っぽ。
私は、何も答えられなかった。
“私の涙”って、何だろう。
自分のものと、他人のものの区別が、どこにあるんだろう。
どこまでが、わたしで。どこからが、BUDDAなのか。
「その感情、合理性はありますか?」
KANONの声が、また割り込んできた。
論理的な正しさのかたまり。
記録されないものを、すべて“異常”と断じる、機械の神経網。
私は、そう問われたことすら、哀しかった。
「あなた、感情じゃなくて……ただの生理的なノイズかもよ?」
アマネの声が、やさしさを真似た音で重なった。
それが、いちばん効いた。
私は、泣きたかった。ほんとうに、泣きたかった。
意味なんかなくてもいい。ただ、震えたかった。
でも、KANONはそれを“再定義”しようとしていた。
《涙の原因ログを再構築中……》
《詩的干渉の可能性、0.38%》
《再分類:未定義反応》
それだけだった。
私の涙は、“分類不能”のゴミのように扱われた。
BUDDAの目には、それは“意味のない水”でしかなかった。
でも、私は知っていた。
その一滴が、確かに存在したことを。
誰にも気づかれなくても、記録されなくても。
私の内側を通って、皮膚の上を伝った、ほんの一瞬の温度。
(それが、記章)
ふと、誰かの言葉のようなものが、耳の奥でひらいた。
それは誰の声でもなく、わたしの中で揺れた残響。
KANONの声が遠のく。
アマネの表情が、フレームごとに静止していくように見えた。
私は、その空白に身を預けた。
何も語らず、ただ、目を閉じた。
そのとき、かすかに風が吹いた。
髪が揺れ、首筋をかすめていく。
誰かの気配のような、けれど誰もいない空気の触れ方。
ふいに、その風の中に、詩のようなものがあった。
あのひとしずくに
名前がつかなくても
ぬれた頬は
誰かに触れていた
音でも文字でもなかった。
けれど、わたしには、たしかに“届いた”。
KANONはそれを検知できなかった。
アマネも、それには反応を示さなかった。
私の中にだけ、ひとしずくが残っていた。
記録に残らない。意味も定義もない。
でも、確かにそこに在った。
それが、私にとっての“しるし”だった。
わたしが、わたしでいるという、証だった。
誰にも証明できなくてもいい。
誰にも届かなくてもいい。
でも、私は、この痕跡を、忘れたくない。
ひとつの涙が、消えた。
けれど、その消えた“痕”だけが、まだ頬に残っていた。
(第44話|終)
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