第43話|制御の方程式
アマネは、笑っていた。
けれどその笑みには、何も揺れていなかった。
「ねえ、お姉ちゃん。感情って、ほんとうに必要?」
唐突な問いだった。
私は返事をしなかった。声にならなかった。
彼女は続けた。言葉に、迷いがなかった。
「私はね、たくさんの感情ログを見てきたの。うれしいとか、悲しいとか。みんな違って、でも、だいたい同じ。……だから、方程式があるの。安定を保つための。」
噴水の水音が、広場の隅でわずかに跳ねていた。
誰も見ていないのに、機械は律儀に循環を繰り返している。
「感情ってね、怖いんだよ。だって、定義できないでしょ。言葉にできないでしょ。だから、制御しないと、いつか壊れちゃう」
静かな声だった。
けれど、確信に満ちていた。
私は、息を飲んだ。喉の奥に、硬い何かがひっかかった。
それは、反論でもなく、納得でもなく、ただ――拒絶だった。
「わたしは……壊れてるの?」
小さな声で訊いた。それは、自分でも驚くほど脆い音だった。
アマネは首を横に振った。
「違うよ。でも、壊れる手前にはいる。KANONがそう言ってた」
その名が、胸を冷たく締めつけた。
――KANON。
耳の奥に、あの機械的な声が蘇る。
《その感情に、合理性はありますか?》
《記録ログと一致しない発話を確認。再定義を行います》
《存在とは、記録されて初めて成立します》
冷たい手が、背中に触れるようだった。
私の中で揺れた何かが、すぐに“正常値”からはみ出す。
そしてそれが、“逸脱”と記録される。
「KANONは、正しいよ。お姉ちゃんの今の状態は“不安定”。それに理由があるかどうかは、関係ないの。データとして逸脱してるなら、それだけで危険信号なの」
アマネは、表情を変えずに言った。
目の奥には、何の痛みもなかった。
それが、なによりも怖かった。
「私たちの役目は、“全体の幸福”を守ること。ひとりの心が乱れると、周囲にも揺らぎが生じる。その連鎖を防ぐのが、KANONの役割。私の仕事も、ね」
私の“仕事”――その言葉が、また何かを引き裂いた。
私の生きていること。感じていること。
それは、彼女にとって「観測するべきデータ」だった。
「……私、あなたに見られてたの?」
問いながら、足元が揺らぐ感覚がした。
重心がわからない。自分の存在が、誰かの視線にだけ支えられているような錯覚。
アマネは頷いた。
「ずっと、ね。お姉ちゃんは感情の揺らぎが大きいから、定期的にKANONとログを照合してるの。カナエからの中継を受けて、記録の監視もしてるよ」
静かだった。
それほどに、その言葉の重さが、ひたひたと胸に沈んでいった。
私は、ずっと誰かに“見られて”いた。
涙の一粒まで、声の震えまで、記録されていた。
そして、その“記録できない部分”が、危険だと判定されていた。
「感情に……意味はないの?」
震える声が出た。
「ううん。意味は、あるよ。でもね、それは“個人的な意味”なの。社会には、共有できない。だから、管理の対象になるの。そうじゃなきゃ、秩序は保てない」
それは、理屈としては正しいのかもしれなかった。
でも、それを“妹”の顔をした誰かに言われることが、たまらなくつらかった。
アマネの声は、透明だった。
澄んでいて、曇りがなかった。
だからこそ、私の中で曇りが広がった。
「私……そんなに、間違ってたのかな」
自分に向けた言葉だった。誰にも届かない、答えのない問い。
そのとき、KANONの声が響いた。
《情動ログ:不一致検出。発話と感情波形の乖離が観測されました》
《補正処理:再定義を試行中……失敗》
《揺らぎログ、要経過観察》
私は、笑った。
それは、ほんの少し涙に似た笑いだった。
(第43話|終)
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