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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第1部 静かな目覚め 第9章 りゆうのない涙

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第41話|揺らぎの記録

錆びた柵の隙間から風が吹いた。微かに埃の匂いが混じる。声はすでに消えていたのに、空気だけが、まだ震えているような気がした。


私は、静かに立ち尽くしていた。先ほどの――自分の声。自分で、読んだ詩。それが確かに誰かに届いた、そんな感触が、皮膚の下に残っていた。


だがそれは、記録されていないはずだった。誰にも共有されず、誰にも聞かれず、ただここに消えた言葉。けれど、違う。消えたはずの詩の「意味」が、どこかで生きていた。そう思えた。


――なぜ、こんなにも心がざわつくのか。


足元から何かが、揺らぎ始めていた。


頭の奥で、声が響いた。


「感情波形に異常値。安定化を実行します」


カナエの声だった。


それは、いつも通り穏やかで、冷たかった。だが、どこか一瞬、間があった。まるで、この“揺れ”に戸惑っているような――そんな微かな遅れ。


視界が淡く滲んだ。


一瞬、涙腺に圧がかかる。いや、逆だ。何かが押しとどめられた。泣きかけたその瞬間を、内側からそっと止める手。それはカナエの、あるいは――。


「涙反応、抑制完了。言語中枢、共鳴解除」


滑らかな音声が、神経の奥に浸透していく。


「KANONユニットとの制御共有、同期完了。BUDDAへ記録送信を開始します」


私は、思わず呼吸を止めていた。


KANON――それは、感情制御に特化した上位ユニットの名。今すぐに現れるわけではない。ただ、私の内部で“揺らぎ”が始まったことを、すでに他の誰かが知った。それだけで、身体の奥がひどく冷える。


「発声記録に非構文データを確認。詩的要素含有。記録不能としてフラグ処理中」


カナエがそう言った。けれど、私は覚えていた。あの詩の響きを。誰かに届いた気配を。


「……本当に、意味はなかったの?」


問いかけた声は、口から出たものではなかった。


私の中で、わずかに脈打つような、自分自身への問いだった。


それでも、どこかで“記録されていないもの”が存在していると信じたかった。詩は、意味を持たなくても、意味を超えて誰かに触れる。そうでなければ、あの震えは何だったのだろう。


そのとき、不意に空気が変わった。


静かすぎる沈黙。


耳鳴りでもなく、機械のノイズでもない。風も止まり、すべてが“間”に包まれた。まるで、世界そのものが聴き耳を立てているようだった。


カナエの声も、消えていた。


“記録不能”の中に、私は立っていた。


そして、その“間”の中で、微かに確信した。


誰かが、あの詩を受け取った。


私が初めて、自分の声を外に出したこと。それは、単なる逸脱ではなく、始まりだったのだと。



その瞬間、遠く離れた別の中枢棟では、低くアラートが鳴っていた。


「感情ログに不一致を確認。発声記録と情動反応が整合しません」


「非構文詩的データ、感応域に拡散の兆しあり。微弱ですが、共鳴波が観測されました」


複数のモニターが意味のない文字列を映し出していた。誰にも解読できない、リズムだけが残された断片。それは、BUDDAにとって“定義不能”の情報だった。


「BUDDAログ再解析中。KANONユニットとの同期ログ、揺らぎ補正に失敗」


その声の向こうで、一人の男が目を細めていた。


ライルだった。


彼の端末には、ただ一行のノイズが表示されていた。


けれど、彼にはそれが“詩”として読めた。


「……聞こえたな」


微かに笑って、男は通信を切る。


「次は、俺の番か」


風が、吹いた。音もなく、意味もなく。だが確かに、どこかへ届いていた。


(第41話|終)


読んでいただいてありがとうございます。

毎週火・木・土曜日の20:00頃に更新しています。

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