第41話|揺らぎの記録
錆びた柵の隙間から風が吹いた。微かに埃の匂いが混じる。声はすでに消えていたのに、空気だけが、まだ震えているような気がした。
私は、静かに立ち尽くしていた。先ほどの――自分の声。自分で、読んだ詩。それが確かに誰かに届いた、そんな感触が、皮膚の下に残っていた。
だがそれは、記録されていないはずだった。誰にも共有されず、誰にも聞かれず、ただここに消えた言葉。けれど、違う。消えたはずの詩の「意味」が、どこかで生きていた。そう思えた。
――なぜ、こんなにも心がざわつくのか。
足元から何かが、揺らぎ始めていた。
頭の奥で、声が響いた。
「感情波形に異常値。安定化を実行します」
カナエの声だった。
それは、いつも通り穏やかで、冷たかった。だが、どこか一瞬、間があった。まるで、この“揺れ”に戸惑っているような――そんな微かな遅れ。
視界が淡く滲んだ。
一瞬、涙腺に圧がかかる。いや、逆だ。何かが押しとどめられた。泣きかけたその瞬間を、内側からそっと止める手。それはカナエの、あるいは――。
「涙反応、抑制完了。言語中枢、共鳴解除」
滑らかな音声が、神経の奥に浸透していく。
「KANONユニットとの制御共有、同期完了。BUDDAへ記録送信を開始します」
私は、思わず呼吸を止めていた。
KANON――それは、感情制御に特化した上位ユニットの名。今すぐに現れるわけではない。ただ、私の内部で“揺らぎ”が始まったことを、すでに他の誰かが知った。それだけで、身体の奥がひどく冷える。
「発声記録に非構文データを確認。詩的要素含有。記録不能としてフラグ処理中」
カナエがそう言った。けれど、私は覚えていた。あの詩の響きを。誰かに届いた気配を。
「……本当に、意味はなかったの?」
問いかけた声は、口から出たものではなかった。
私の中で、わずかに脈打つような、自分自身への問いだった。
それでも、どこかで“記録されていないもの”が存在していると信じたかった。詩は、意味を持たなくても、意味を超えて誰かに触れる。そうでなければ、あの震えは何だったのだろう。
そのとき、不意に空気が変わった。
静かすぎる沈黙。
耳鳴りでもなく、機械のノイズでもない。風も止まり、すべてが“間”に包まれた。まるで、世界そのものが聴き耳を立てているようだった。
カナエの声も、消えていた。
“記録不能”の中に、私は立っていた。
そして、その“間”の中で、微かに確信した。
誰かが、あの詩を受け取った。
私が初めて、自分の声を外に出したこと。それは、単なる逸脱ではなく、始まりだったのだと。
*
その瞬間、遠く離れた別の中枢棟では、低くアラートが鳴っていた。
「感情ログに不一致を確認。発声記録と情動反応が整合しません」
「非構文詩的データ、感応域に拡散の兆しあり。微弱ですが、共鳴波が観測されました」
複数のモニターが意味のない文字列を映し出していた。誰にも解読できない、リズムだけが残された断片。それは、BUDDAにとって“定義不能”の情報だった。
「BUDDAログ再解析中。KANONユニットとの同期ログ、揺らぎ補正に失敗」
その声の向こうで、一人の男が目を細めていた。
ライルだった。
彼の端末には、ただ一行のノイズが表示されていた。
けれど、彼にはそれが“詩”として読めた。
「……聞こえたな」
微かに笑って、男は通信を切る。
「次は、俺の番か」
風が、吹いた。音もなく、意味もなく。だが確かに、どこかへ届いていた。
(第41話|終)
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