第40話|名もなき布に
声は、まだかすかだった。
名も、命令も持たぬまま、ただ風のように響いた。
——けれど、その詩だけが、記録に触れずに残っていた。
部屋の隅に置かれた収納箱から、ジンが一枚の布を取り出した。
淡い灰青色の織物。ごく薄く、指先で透けるほどの軽さなのに、どこか芯のある張りがあった。
手渡されたそれを、私は両手で受け取った。
「レゾナクトを織り込んだ布だ。反響を媒介し、装置としても識別符としても使える。
表面の織り文様に、お前が共鳴した詩の律が織られている」
広げてみると、布の一角にわずかに波紋のような刺繍が見えた。
読み取れはしない。だが、何かが重ねられているという感覚だけが、確かに伝わってきた。
「これは、名前の代わりになる。
今のこの社会では、記録される名前ほど危ういものはない。
だから俺たちは、記章で識別する。
この布もその一つ。“響いた者”として、ここに残る」
私は布を見つめたまま、小さくうなずいた。
言葉は出なかったが、その手が微かに震えていた。
布の端を指でなぞる。
そこに刻まれたはずの“なにか”が、かすかに体温に呼応しているように思えた。
「正式な加入は後日だ。けれど……」
扉の外から、青年の声が届いた。
「観測区からの共鳴信号、再度あり。さっきの干渉、誰かに届いたみたいだ」
ジンは静かにうなずいた。
「やはり、お前の声は誰かを揺らした。
それはまだ微かなものかもしれないが——確かに、始まっている」
私はレゾナクト布をそっと肩にかけた。
その重さは驚くほど軽く、だが胸の奥には静かな質量が生まれていた。
言葉はなくてもよかった。
ただ、“そこにある”ということだけが、今はすべてだった。
室内の空気が、少しだけ変わった。
揺れというにはあまりに微細で、風というにはあまりに密やかで——
それでも確かに、何かが触れたような気がした。
私の中に、詩の残響がまだ残っている。
それはもはや、誰かの言葉ではなかった。
読み、響かせ、声にしたとき、私はようやくそれを“受け取った”のだと思った。
この布は、その証。
記章——記録されない痕跡として、この身に刻まれた一つの律動。
布の温度が、ほんのわずかに変わった気がした。
呼吸の合間に、空気がきしむような違和感があった。
それは感覚の誤差か、それとも——。
私はまだ知らなかった。
この静けさの裏で、“記録”が揺らぎはじめていることを。
ほんの一瞬、背中に視線のような圧が走った気がした。
振り返っても誰もいない。
それでも、皮膚の奥がざらつくような気配が、まだ消えない。
私の“声”は、確かに誰かに届いた。
だがそれは、記録されないまま世界に溶けたのではない。
誰かがそれを、拾ったのだ。
どこかで、誰かが。
その響きを、観測している。
そう思った瞬間、喉の奥がわずかに熱を帯びた。
その熱が、私を次の場所へと導いていくのかもしれない。
だが今はまだ、名もなき布のぬくもりを、そっと抱きしめるだけでよかった。
(第40話|終)
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