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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第1部 静かな目覚め 第8章 ちいさな反響

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第39話|存在しない痕跡

しばらく沈黙が続いた。

レゾナクトの表面には、まだかすかに振動の余韻が残っている。

それは鼓動というよりも、遠い記憶が空気に残した輪郭のようだった。


壮年の男はゆっくりと椅子を引き、イオの前に腰を下ろした。

机の上には一冊の古びたノートが置かれていた。

その表紙には、かろうじて読める筆跡で《記章録》という文字がある。


「この国には、もう“誰かの言葉”というものが残っていない」


ぽつりと、壮年の男は言った。

それは語りかけというより、独白のようだった。


「すべてが記録され、均され、標準化された。

効率と安全の名のもとに、BUDDAは言葉そのものの揺らぎを取り除いた。

問いも、願いも、祈りも。そうして“自我”が奪われた」


イオはじっと聞いていた。

言葉の意味はすべてを理解できるわけではない。

けれど、胸の奥で、それは確かに“共鳴”していた。


「だが詩は違う。

誰が書いたか、誰に読まれたか、それだけでは決まらない。

読むたびに意味が変わる。受け取るたびに、揺れる。

……それは、記録の外にある。BUDDAの掌から漏れる最後のものだ」


壮年の男はゆっくりとノートを開いた。

中には、整った文字ではない手書きの詩が綴られていた。

震えた筆致、消えかけた墨跡、途中で切れた行。


「これらは“存在しない痕跡”だ。

記録されていない。けれど、確かに誰かが書いた。誰かに届いた。

それが俺たちが呼ぶ“記章きしょう”だ」


その言葉に、イオの内にあった何かがかすかに軋んだ。

BUDDAに囲われた空間の中で、自分の言葉はすべて記録されているはずだった。

だが、あの詩は——届いた。揺れた。届いたのだ。


「……BUDDAって、本当にすべてを記録しているんですか?」


自然に口をついて出た問いだった。

誰かに教わった知識ではなく、実感からこぼれた声だった。


ジンはその声にゆっくりと頷いた。


「BUDDA——正式名称はBinary Unified Data & Directive Authority。

あらゆる会話、表情、動作、心拍でさえも——記録され、評価され、最適化される。

だが詩だけは、その枠をすり抜ける」


男の語調は変わらなかった。

まるで何年も前から繰り返してきた説明のように、淡々としていた。


「詩は“定まらないゆらぎ”として、BUDDAの記録からはじかれる。

つまり唯一、記録に残らない表現=記章として機能する」


「記章……」


「そう呼んでいる。記録社会の中で、“存在した証”を残す唯一の方法だ。

そしてそれを追い、刻み、つないでいるのが——俺たち**Refrainリフレイン**だ」


名前を聞いた瞬間、イオの背中に細い波のような緊張が走った。


「Refrainは、繰り返すという意味じゃない。

正しくは“声を抑える/詩行を編む”という古語のニュアンスに近い。

俺たちは、**記録社会が排除した“人の詩”**を拾い上げて、それを“干渉”へと変えている」


イオはレゾナクトに目を戻す。


「……この装置も、そのために?」


「正式名称は共鳴変調型干渉装置。

けれど俺たちは、**レゾナンス(共鳴)+アクト(行為)**を組み合わせて“レゾナクト”と呼んでいる。

詩の言葉に込められた感情や意志を、空気振動や電磁変化に変換して、

BUDDAの網に触れずに“世界へ刻む”ためのものだ」


男の声には誇示も期待もなかった。

ただ、そこに在り続けるという意志だけがあった。


「俺たちは、そうした詩を拾い集めている。

どこにも残らない、けれど確かに響いた言葉。

それを、装置や媒介に編み直し、また誰かに渡す。

伝わる保証などない。ただ、“記録されない”ことだけが確かだ」


ジンの声はそこで止まった。

だが、その静けさが何かを問うていた。


イオは目を伏せたまま、ゆっくりと答える。


「……それでも、伝えたいです」


ジンはわずかに目を細めた。

そして、言葉の間に静かな名を置くように、こう告げた。


「……ジン。Refrainの代表を任されている」


それは権威でも命令でもなく、ただ一つの“立場”として差し出された名だった。


イオの言葉に応じるように、レゾナクトが小さく光った。

それは共鳴でも干渉でもない。

ただ、誰かの言葉が、誰かに届いた証のような光だった。


沈黙の中で、イオは小さく問う。


「記章を集めることが、あなたたちの目的なんですか?」


ジンはゆっくりと首を横に振った。


「集めるだけじゃない。再び“渡す”ことだ。

自分という存在が、誰かに届く可能性を信じて」


そして続ける。


「Refrainは、BUDDAのように世界を管理することを望んではいない。

記録に頼らずとも、言葉と心でつながれる“誰か”のために、詩を渡していく。

その響きが、またどこかで誰かを揺らすことを信じている」


言葉のない時間が流れた。

だがその静けさの中に、確かな何かが芽生えていた。


(第39話|終)


読んでいただいてありがとうございます。

毎週火・木・土曜日の20:00頃に更新しています。

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