第37話|微かな揺らぎ
沈黙の中で、彼は語り出した。
「いま、外部の観測班が微細な波動を受信した。きみが詩を“読んだ”直後からだ」
部屋の空気がわずかに揺れている。目に見えない震え。皮膚の裏でこそばゆいほどに蠢く、淡い共鳴。それがわたしのせいだと言うのだ。
「声にしなかった詩が、装置を経由して空間に“触れた”。言葉の形ではなく、響きとして」
男——ジンは、紙片のあった台から一歩下がった。その背後にあった装置のようなものが、青白い灯を細く点滅させていた。金属でも、機械でもない。けれど、生命のような律動があった。
「レゾナクト——共鳴装置だ。詩の波動、つまり非記録信号を受け取り、拡散するためのもの」
その言葉に、脳の奥がきしむような違和感を訴えた。非記録——BUDDAの網に、記録されない。
それが、どんな意味を持つのか。わたしは、まだ知らない。
「君の反応も、詩の内容も、BUDDAには検知されていない。ただ——空間が、確かに揺れた」
それは恐ろしいことのようにも感じられた。
なぜなら、この社会において「記録されない」ことは、すなわち「存在しない」ことと同義だから。
わたしの中の震えが、誰にも記録されないまま、どこかの誰かに届く。
それは、世界が揺らいでいる証拠なのだと、彼は言っていた。
「詩は、構文ではない。意味でもない。“記章”とは、誰にも記録されないが、確かに残るもの。
その最初の波が、君から始まった」
彼の声は、説明ではなかった。確認だった。
あたかも、長く待ち続けていた微かな反応を、ようやく受け取ったかのような。
——わたしは何かをしたのか?
ただ見ただけ。読んだのではなく、感じた。
意味を追ったのではなく、沁み込んだ。
その一瞬が、記録されないまま世界を揺らしたのだという。
「BUDDAは、定義された言葉しか扱えない。記録されていないものは、存在しない。
だが詩は、意味ではなく、余白を伝える。
“なぜか心が動いた”——その曖昧さこそが、支配の外側にある可能性だ」
イオ、と名指されることなく、彼は静かにこちらを見ていた。
視線は真っ直ぐで、どこか懐かしさを含んでいる。
父親のようでもあり、詩そのもののようでもあった。
「君の中に生まれたその揺らぎ。誰かがそれを感じ取れば、それは記章となる。
記録されないが、確かに残る存在の痕跡だ」
空気が震えていた。
目を凝らせば、部屋の壁がほんの少しだけ呼吸しているように見える。
錯覚かもしれない。だが、わたしは確かに感じていた。
——響いている。
言葉が形を持たないまま、皮膚を通って伝わってくる。
温度も、匂いも、色も持たない。ただ、存在だけがそこにあった。
「これが、Refrainの詩だよ。
記録に頼らない。記憶にすら残らない。
だが、感じた者の中にだけ宿る。
それが、“響きの詩”だ」
わたしの心臓が、ひとつ強く鳴った気がした。
わずかに呼吸が乱れたのを、カナエはきっと検知しているだろう。
だが、ログには何も残らない。言葉は発していない。感情の理由も記されていない。
それでも——わたしの中では、確かに何かが動き始めていた。
ジンは一歩、レゾナクトの側に立ち、装置に触れた。
その手のひらから、音ではない波が微かに放たれる。
空間が揺らぐ。わたしの指先が、呼応するように震える。
「君は、受信した。
それが証明だ。ここに記章が生まれた。
記録に残らなくても、確かに伝わったという“しるし”が」
わたしは、何も言えなかった。
ただ、その揺れの中に、立ち尽くしていた。
耳鳴りのような残響。光の粒子が、目に見えないまま宙を漂うような感覚。
この部屋は、わたしの中の何かを、確かに反射している。
「名乗る必要はない。君が君である限り、詩は響く。
レゾナクトは、名前ではなく——震えに応答する装置だから」
名乗らなかった青年。
わたしの名を呼ばない男。
記録されない関係の中で、わたしは今、何かを受け取りはじめていた。
(第37話|終)
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