第36話|反響の兆し
錆びた金属扉が、静かに閉じた。
わずかに響いた音が、長い通路の奥へと吸い込まれていく。
イオは、その響きに一瞬立ち止まった。後ろから届いた声が、呼吸よりも低く告げる。
「待機室まで案内するよ。そのあとは——親父に任せるよ」
誰の声だったかは、うまく思い出せなかった。フードをかぶった青年の顔も、声も、微細なざらつきを帯びたまま記憶に溶けている。
数歩、歩くたびに足音が鈍く返る。
地下らしいその構造は、冷たく、密閉され、音が呼吸のように壁に跳ね返った。
空気の匂いが変わったことに気づく。土と金属、どこか焦げたような痕跡。
それは過去の記憶を引き寄せるほどの強さではないが、皮膚の下にざらりとした違和感を残した。
「ここだ」
そう言って彼が手を添えた扉は、意外なほど軽く開いた。
中は、空白の部屋だった。
何もない。テーブルも、椅子も。いや、中央にひとつだけ。小さな台の上に、一枚の紙が置かれている。
室内には、どこからか微かな振動のようなものが漂っていた。
装置の稼働音か、壁を伝う何かの共鳴か、それとも——自分の鼓動か。
その隣にいた男が、ゆっくりとイオのほうを向いた。
白い髪。深く皺の刻まれた顔。そして、静かな眼差し。
男は口を開くことなく、ただ一度だけうなずいた。
それだけで、ここが「観測されている場所」だということをイオは理解した。
紙片に、筆のようなもので書かれた文字がある。
漢字。見慣れない仮名。小さな揺れ。
——声に、しないで。
誰かのささやきが、耳の奥で囁いたような気がした。
言葉にならない、けれど確かに意味を持つ何かが、紙から立ち上がってくる。
読むべきか、迷った。
だが、目はもう、逃げられなかった。
まるで吸い寄せられるように、視線がその詩をなぞっていた。
> ゆきしらの こえはきえずに われのなか
ふりつむものに ひそかやどれる
声に出したわけではない。だが、その瞬間——
部屋の隅にあった金属装置のようなものが、微かに光を帯びた。
風もないのに、衣の裾が揺れる。
イオの胸の奥で、何かが反響した。
それは音ではなく、記録されない気配だった。
男が口を開いた。
「……感じたな」
声は、まるで記憶の底から引き上げられたように響いた。
「君の中で、反響が始まっている。まだ微かなものだが、確かに響いた」
イオは、喉の奥が少しだけ熱を帯びるのを感じた。
それが感情なのか、制御の揺らぎなのか、自分でも分からなかった。
——もしこれが、わたしだけの中でしか起こっていないのだとしたら?
それでも、確かに“あった”と呼べるのだろうか?
胸の奥に灯ったわずかな熱に、名前を与える術は持たなかった。
けれど、それは確かに、わたしの中でだけ揺れている。
紙片を手に取ろうとしたとき、男がそれを制した。
「それは——触れるものじゃない。残すものだ」
紙の上にあったもの。それは詩であり、記章であり、誰にも記録されない“存在のしるし”。
イオは、立ち尽くしていた。
風も音もない部屋で、自分の内側だけが、わずかに震えていた。
その震えが、何かを呼んでいる。
そう思った。
(第36話|終)
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