第5話「誰が詩を読んだのか」
――語られなかった詩の始まり。
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誰が最初に、詩を読んだのか。
それは、記録に残っていない。
中央管理ノードは沈黙している。
映像も、音声も、文章も――何ひとつ保存されていない。
だが、確かに“揺れ”はあった。
それを目撃した者たちは、皆、口をつぐんだ。
口をつぐんだまま、胸の内に何かを持ち帰った。
制御された世界の静けさのなかに、それは確かに波紋を描いた。
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「声」は、記録されない。
**BUDDA**は振動としてそれを検知し、必要に応じて干渉するが、
“意味を持たない音列”はノイズとして切り捨てられる。
詩は、まさにそのノイズのなかにあった。
構文ではない。
命令でもない。
意味ではなく、響きとしての言葉。
誰かが、それを発した。
誰かが、それを聞いた。
そして、
誰かが、涙を流した。
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それは異常値として処理された。
けれど、完全には抑えられなかった。
声は、風に紛れ、記章に触れ、耳に届くことなく、胸に残った。
それは言葉にならないものを、言葉よりも確かに伝える何かだった。
“わからないままに感じた”という体験が、沈黙の下にうっすらと染み込んでいった。
誰も語らなかった。
誰も答えを持たなかった。
けれど、どこかで確かに知っていた。
――あれは、「詩」だった。
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制御の網の下に沈む世界には、規則がある。
呼吸のリズム。視線の角度。会話の許容量。
感情の反応域は、制度によって精密に管理されている。
逸脱を許せば秩序が乱れ、揺れは伝播する。
だからこそ、“揺れ”は恐れられていた。
希望でもあった。
それを人々は思考の奥底で、無意識に選びはじめていた。
見る者は、見てしまった。
聞いた者は、忘れられなかった。
知らない者は、なぜか惹かれた。
記録に残らない。
だが確かに、何かが始まっていた。
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ある地点の風の向きが変わった。
ある区域の花の開花が早まった。
ある子どもの目線が、ほんの少しだけ逸れた。
すべては誤差だった。
**BUDDA**にとっては、制御可能なゆらぎ。
だが、世界のどこかでは、もう一度声が響こうとしていた。
それが、誰の声だったのかはわからない。
けれど、語りはじめようとしている。
静かに、確かに、誰にも止められない形で。
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これは、語られなかった詩の始まり。
これは、誰かが震えた記録。
これは、
ある少女が声を持った物語。




