第4話「それでも誰かは震える」
――記録の隙間に、誰かの想いがこぼれていた。
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風が吹く日だった。
第九生活圏では風速も気温も管理されているため、「吹く」という表現は本来ふさわしくない。
しかしこの日、確かに空気は揺れていた。
髪がわずかに乱れ、肌に感覚が走った。
それは微細な誤差だったが、彼にははっきりと“違う”とわかる何かだった。
彼――16歳の男子学生は、通学中の停止ラインに立っていた。
周囲の生徒たちは無言で並んでいた。誰も会話を交わさない。
整然と設計された歩行ルート。均等な間隔。すり減らない靴音。
だが、その整然とした静けさの中で、彼だけが立ち止まっていた。
理由はない。立ち止まってはいけないことも、知っている。
けれど、風にあたることで、
何かが胸の奥で、揺れた気がした。
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それが何なのか、彼自身も説明できない。
制御下の生活においては、“感情”という言葉はある種の形式でしかなかった。
「悲しい」とはこういう時に使う、「嬉しい」とはこう反応する。
すべては定義づけられており、必要な表情も伴って提示されている。
だが、言葉ではなく、定義でもなく、
理由のない震えが、確かに存在した。
それは、風のようなものだった。
目に見えず、記録されず、けれど確かに体に触れるもの。
その日の夜、彼は夢を見た。
記録には残らない、色も音もあいまいな夢。
誰かが遠くで、名前を呼んでいたような気がした。
名を呼ばれることの意味を、彼は知らなかった。
けれど、目覚めたとき、涙の跡だけが枕元に残っていた。
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そんな“逸脱”の報告は増えてきている。
それは暴動でも反乱でもなく、ただの微細な生体変動として観測される。
呼吸のずれ。視線の逸れ。静寂の中に生まれた、ほんのわずかな“躊躇”。
その原因は不明とされている。
一部の研究記録では、**記章**と呼ばれる記憶触媒が、
制御外の感情を呼び戻す可能性を指摘している。
古い布、断片的な文字列、あるいは響きの強い単語。
そうした素材に偶発的に触れた者が、“一時的な揺れ”を起こす。
けれど、統治体はそれを“障害”とは見なさない。
感情を消すことは制度上認められておらず、ただ管理されているだけなのだから。
それでも、
「感じた」ことを、誰かに伝える術は存在しない。
言語にしてしまえば、制御は強まる。
記録に残せば、揺れは定型に還元される。
だから人々は黙っている。
震えながら、黙っている。
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最近、噂がある。
街の下層域で、誰かが“言葉を放っている”という話だ。
それは記録に残らない声であり、誰にも制止されない詩だという。
音声データも、映像も残っていない。
けれど、それを聞いた者は、涙が出たと語った。
「名前は知らない。顔も見えなかった。
でも、声だけは、胸に残っている気がする」
そう口にした人物は、その後再び姿を見せていない。
記録には何も残っていない。
だが、“レジスタンス”という言葉だけが、
街の壁の影や、子どもたちの囁きの中に、少しずつ広がっている。
それが何を意味するか、誰もはっきりとは知らない。
ただ、確かにそれは「震えを止めなかった誰か」の痕跡だと、
彼らの身体は知っている。
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そして、誰かはまだ、震えている。
風の中で、
夢の底で、
言葉にならない思いの中で。
たとえそれが、
記録されなくても。
だが、震えを目にした者たちは、それぞれに違うものを見た。
ある者は、希望を感じた。
それは秩序の向こうにある、名もない“可能性”の予兆だった。
そしてある者は、恐怖した。
それは秩序を侵す“異常”であり、自分の静けさを脅かす“揺れ”だった。
感情は制御されていたが、思考は残っていた。
思考の深く、言葉にならない選択が、静かに分かれ始めていた。




