第2話「均された暮らし」
――揺れなければ、傷つくこともない。
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午前六時、日差しは完全に調整されている。
第九生活圏では、降雨・風速・光量などの自然条件がすべて管理下にある。
天気は気分に左右されない。景色は、いつも等しく穏やかだ。
住宅区画では、目覚ましの音は鳴らない。
すべての住民は、睡眠サイクルに最適化されたタイミングで自然に目を覚ますよう調整されている。
カーテンは自動的に開き、調整された光が網膜に届く。
朝食は、個人の健康記録と嗜好履歴に基づいて配膳される。
食欲の変動や好き嫌いといった非合理要素は、定期的な調整により安定化されている。
飽きることはない。驚くこともない。
味の濃さは、過去の最適反応値を元に計算されている。
子どもたちは、定刻に登校する。
だが「登校」といっても、物理的な移動はない。
教育プログラムは、家庭端末に直接配信される。
AI教育ユニットが個人の学習速度と理解度を解析し、日々の内容は柔軟に変動する。
言語は英語を標準とし、抑揚や比喩表現は避けられる傾向にある。
詩的言い回しや感情を想起させる語彙は、使用しないよう指導されている。
「楽しい」「つらい」などの言葉は存在するが、それが何を意味するかを問う者はいない。
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感情は、完全に制御されているわけではない。
ブッダ(BUDDA)──Biological Unified Directive Data Archive──が提供する感情制御技術は、
各個体にとっての「許容値」から逸脱しないよう調整を行う仕組みだ。
個々の“揺れ”(=情動変動)は存在する。
だが、それは最小限に留められ、制御可能な範囲に閉じ込められる。
怒りも、悲しみも、熱狂も、過剰に膨らむことはない。
たとえば、最近では“抑制波”と呼ばれる生体信号制御手段が一般化している。
皮膚下のナノインターフェースを通じて、自動的に過剰反応を沈静化する波長信号が送られる。
その結果、表情の変化は少なくなり、衝動的な発言や行動も激減した。
通りを歩く子どもたちは静かだ。
笑っている子もいるが、その笑い声は一定の振幅を超えない。
誰かにぶつかっても謝罪の言葉はすぐ出てくるが、感情の揺らぎはほとんど感じられない。
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娯楽も存在する。
映像、音楽、インタラクティブ演劇など、選択肢は多様だ。
ただし、あらゆる作品は事前に審査され、「過剰な感情刺激を含まない」ことが前提となる。
そのため、“泣ける物語”や“心が震える詩”といったジャンルは、自然と姿を消していった。
それでも人は、日々の生活に不満を抱くことはない。
いや、“抱けない”のかもしれない。
感情制御は、意志の力ではなく、生理反応そのものに働きかける。
本人が怒ろうとしても怒れず、悲しもうとしても涙が出ない。
そうした抑制が長年にわたり続けられてきた。
人々は、ほとんど何も失わずに済んだ。
苦しみも、衝突も、不平も、なくなったのだから。
だが同時に、何かを得る機会もまた、静かに失われていった。
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時折、誰かが何かを思い出したような顔をする。
風に吹かれて、立ち止まる人がいる。
何かを言いかけて、黙ってしまう子がいる。
それはブッダのログには記録されない。
ただの一時的な“間”として処理される。
けれど、その一瞬に、
何かが揺れたような気がする。
それが何か、誰にも説明できない。
そしてそれこそが、
この世界でいま最も危険なこととされている。
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