間話「記録の地より」
第1話「波に沈んだ地図」
――記録にないもの、それがすべてを動かす。
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それは、遠い過去のことだった。
正確な年代は残されていない。記録の断絶は、静かな沈黙のなかで始まった。
氷が溶け、海が陸を侵し、かつて存在した都市や島々は波に呑まれていった。
地球温暖化と呼ばれていた連鎖的変化は、やがて全人類の生活圏を塗り替え、地形そのものを変えていく。
消失した国家、崩壊した経済圏、浮上する新たな秩序。
人々はその一連の変動を、やがて「第一終息期」と呼ぶようになった。
この混乱を乗り越えるため、人類はひとつの指針を導入した。
すべてを記録し、管理し、再び過ちを繰り返さないための恒常的観測・統制システム。
それがBUDDA、正式名称**Biological Unified Directive Data Archive(生体統一指令・記録アーカイブ)**である。
ブッダは、個人の行動、感情、判断、果ては心拍・呼吸・眼球運動といった生体反応までもを計測し、膨大なデータとして蓄積・分析する。
必要な指示はリアルタイムで配信され、逸脱の予兆は未然に抑止される。
人類はこの仕組みによって、再びの混乱を未然に防ぐことが可能となった。
国家という概念は放棄され、言語は統一され、あらゆる意思疎通は標準化された記録体系へと移行した。
そして新たな統治体──**ヒューマイン連邦統治体(HUMANE FEDERATION)**が生まれた。
この体制のもと、全人類は記録によって守られ、導かれていく。
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日本列島は、すでに存在しない。
この区域にかつて住んでいた人々の言語──日本語──も、失われた。
海中に没した旧文明の痕跡は、記録されていなければ存在しないも同然とされた。
そのため、“詩”や“比喩”のような多義的・非効率な言葉の大半は、制度上排除された。
だが、完全な喪失ではない。
わずかに保存された断片や、再構築された文献は、特別な許可を得た研究機関でのみ閲覧が可能とされている。
それらは「失語区文化資源」として扱われており、日常に触れることはない。
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現在、地球上は六つの管理区域に分かれている。
それぞれの区域は、ブッダの中枢ネットワークに直結した**起源ノード(ORIGIN NODE)**を持ち、
記録・制御・運用の三機能を地域単位で分担している。
中央欧亜圏を核とするレイン、中東域のオルビス、環太平洋南部のリミナなどが主な拠点であり、
このうち旧日本地域周辺は、現在「第九生活圏」として分類されている。
生活インフラは完全に自動化され、ベーシックインカム制度により全個人に最低限の衣食住が保障されている。
労働や競争は希望制であり、参加しないことによる不利益も存在しない。
感情の制御技術は生体接続型インターフェースを通じて個々に適用されており、
過剰な怒り、悲しみ、焦燥といった“揺れ”(=感情の変動)は抑えられる仕組みとなっている。
人々は静かに、穏やかに、破綻なく暮らしている。
それが「最適な幸福」であると、誰もが教えられてきた。
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それでも、僅かな“誤差”は存在する。
感情制御が行き届かない瞬間。
記録に残らない反応。
何かを想い出すような、過去の記憶に似た揺れ。
そして、そうした“ノイズ”を拾い上げようとする者たちもまた、確かに存在している。
彼らはレジスタンスと呼ばれる。
この均された世界に抗い、かつての揺れ──詩や感情──を取り戻そうとする集団。
その多くは匿名で、地下に潜伏して活動しており、公式記録には存在しない。
連邦統治体において、レジスタンスは明確な敵ではない。
むしろ“異常値”として排除対象に指定されるだけで、実在を報じることすら原則として許されていない。
だが、その存在は確かにある。
それを証明する記録はない。
けれど、声は残る。
たとえ、記録に残らなくても。
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