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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第1部 静かな目覚め 第7章 とおい影

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第35話|隠れ家の灯

倉庫街の闇を震わせる一節の詩。 詩は、ただの言葉を超えた何かを呼び覚ます。 イオはその響きに導かれ、地下組織レジスタンスの世界へ足を踏み入れる。


──詩の刃が、新たな夜明けを告げる──


階段を下るたび、空気が少しずつ変わっていった。


湿気を帯びた地下通路の奥には、機械のような気配も、都市の雑音もない。

静寂が、ほんのわずかに生き物のように脈打っていた。


やがて、閉ざされた扉の前でライルが立ち止まり、小さく息を吐いた。

「ここが、俺たちの隠れ家だよ」

指先で古びた端末に触れると、壁の一部が低く唸って開いた。

光が漏れた。けれど、それは蛍光灯の白ではなかった。

薄く、温かく、滲むような光。火ではない、けれど呼吸するような灯り。


「ようこそ。ここは“記録されない場所”だ」


小さな空間だった。天井の低い広間には、粗末な机と寝台が並んでいた。

床には古びた毛布。壁にはかつての詩文が書き残され、ところどころに破片のような紙が貼られている。

電子機器らしいものは少なく、言葉と気配だけが空間を満たしていた。


「ここには、君と同じように“響いた者たち”が集まってる」

そう言った彼の言葉どおり、部屋の奥には数人の人影があった。


誰も声を荒げない。

互いに干渉しすぎず、それでいて、どこか深く繋がっているような気配。

その一人が、小さなノートをめくりながら、囁くように詩を口ずさんでいた。

その声に、別の者が呼吸を合わせる。

まるで、風が吹き抜けるように、詩が空気の中で揺れていた。


ライルが言った。


「詩は武器じゃない。けれど、ここではそれがすべてなんだ」

「名前も、経歴も、必要ない。君が何を記録されてきたかなんて関係ない。

 ここで大事なのは——“震えたか”どうか、それだけだ」


私は、その言葉を理解したいと思った。

詩に震えた自分。声を出した自分。

それは、まだ確かな形ではないけれど、それでも——確かに“私”だった。


壁に貼られた紙の一枚が、目にとまった。

手書きの文字。見覚えのある筆跡。

「……この詩、見たことがある」


「誰かの“記章”だよ」

ライルが小さく笑った。

「記録には残らない。けれど、誰かの存在を証明する言葉。

 ここでは、それを“残す”んだ。紙に、声に、空気に、身体に——どこでもいい。

 誰かの中に震えを残せたなら、それで充分だ」


私の胸の奥で、何かが解けていった。

不安でもない、安心でもない、ただ——温かい。


この場所の誰も、私に指示を出さなかった。

代わりに、何も尋ねなかった。

その静けさが、かえって問いかけのように感じられた。


「……私にも、残せるかな」

その呟きが、誰に向けたものなのか、自分でもわからなかった。


ライルはうなずいた。

「君が震えたその時点で、もう残ってるよ。

 あとは、それを誰かに伝えたいかどうか。それだけだ」


私は目を閉じた。


暗闇ではなく、灯りの中にいる。

誰の記録にも残らない場所。

けれどここでは、たしかに誰かの呼吸が、詩が、存在が——響いていた。


自分がどこから来て、どこへ向かうのか。

その問いに、答えはまだ出ない。

けれど、確かに今、私の足は、選んだ場所の中にあった。


(第35話|終)

読んでいただいてありがとうございます。

毎週火・木・土曜日の20:00頃に更新していきたいと思います。

今後ともヨロシクお願い致します。


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