第35話|隠れ家の灯
倉庫街の闇を震わせる一節の詩。 詩は、ただの言葉を超えた何かを呼び覚ます。 イオはその響きに導かれ、地下組織レジスタンスの世界へ足を踏み入れる。
──詩の刃が、新たな夜明けを告げる──
階段を下るたび、空気が少しずつ変わっていった。
湿気を帯びた地下通路の奥には、機械のような気配も、都市の雑音もない。
静寂が、ほんのわずかに生き物のように脈打っていた。
やがて、閉ざされた扉の前でライルが立ち止まり、小さく息を吐いた。
「ここが、俺たちの隠れ家だよ」
指先で古びた端末に触れると、壁の一部が低く唸って開いた。
光が漏れた。けれど、それは蛍光灯の白ではなかった。
薄く、温かく、滲むような光。火ではない、けれど呼吸するような灯り。
「ようこそ。ここは“記録されない場所”だ」
小さな空間だった。天井の低い広間には、粗末な机と寝台が並んでいた。
床には古びた毛布。壁にはかつての詩文が書き残され、ところどころに破片のような紙が貼られている。
電子機器らしいものは少なく、言葉と気配だけが空間を満たしていた。
「ここには、君と同じように“響いた者たち”が集まってる」
そう言った彼の言葉どおり、部屋の奥には数人の人影があった。
誰も声を荒げない。
互いに干渉しすぎず、それでいて、どこか深く繋がっているような気配。
その一人が、小さなノートをめくりながら、囁くように詩を口ずさんでいた。
その声に、別の者が呼吸を合わせる。
まるで、風が吹き抜けるように、詩が空気の中で揺れていた。
ライルが言った。
「詩は武器じゃない。けれど、ここではそれがすべてなんだ」
「名前も、経歴も、必要ない。君が何を記録されてきたかなんて関係ない。
ここで大事なのは——“震えたか”どうか、それだけだ」
私は、その言葉を理解したいと思った。
詩に震えた自分。声を出した自分。
それは、まだ確かな形ではないけれど、それでも——確かに“私”だった。
壁に貼られた紙の一枚が、目にとまった。
手書きの文字。見覚えのある筆跡。
「……この詩、見たことがある」
「誰かの“記章”だよ」
ライルが小さく笑った。
「記録には残らない。けれど、誰かの存在を証明する言葉。
ここでは、それを“残す”んだ。紙に、声に、空気に、身体に——どこでもいい。
誰かの中に震えを残せたなら、それで充分だ」
私の胸の奥で、何かが解けていった。
不安でもない、安心でもない、ただ——温かい。
この場所の誰も、私に指示を出さなかった。
代わりに、何も尋ねなかった。
その静けさが、かえって問いかけのように感じられた。
「……私にも、残せるかな」
その呟きが、誰に向けたものなのか、自分でもわからなかった。
ライルはうなずいた。
「君が震えたその時点で、もう残ってるよ。
あとは、それを誰かに伝えたいかどうか。それだけだ」
私は目を閉じた。
暗闇ではなく、灯りの中にいる。
誰の記録にも残らない場所。
けれどここでは、たしかに誰かの呼吸が、詩が、存在が——響いていた。
自分がどこから来て、どこへ向かうのか。
その問いに、答えはまだ出ない。
けれど、確かに今、私の足は、選んだ場所の中にあった。
(第35話|終)
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