第34話|誘いの声
風が止んでいた。
微かな振動が装置の奥に沈みきり、世界が再び静寂へと戻った。
そのなかに、私の呼吸だけが確かに残っている。
たしかに、声は届いたのだ。
けれど——そのことの重さが、いまになって胸を満たしていく。
「君は、呼ばれている」
青年の声は低く、どこか寂しげで、けれど温かかった。
言葉というより、“気配”が伝わってくるようだった。
彼の目は、私の奥を見ている。
言葉になる前の感情。
声にならなかった問い。
私自身さえ、まだ気づけていない何かを。
私は口を開いた。
「……あなたは、誰?」
それが、この空間でようやく発せられた、最初の真正な問いだった。
「あなたは……どうして、私のことを……そんなふうに言えるの?」
青年は一瞬だけ目を伏せ、それからまっすぐに私を見つめ返す。
「俺の名はライル。君が“詩”を響かせたとき、その共鳴を受け取った者だよ」
「君に、声を届けた。いや——君が、受け取ってくれた」
彼は、あの夢の中で聞いた声と同じ響きだった。
だから私の内側に、何かが確かに“知っている”と告げていたのかもしれない。
「俺たちは“Refrain”。記録されない言葉の断片を、拾い集めている。
過去を消された者たちが、未来を繋ぐために集まった、小さな継ぎ目だ」
「君はその中にいる。いや、もう立っているんだ。
響いた声は、ただの偶然じゃない。君は、応えた。——それがすべてだよ」
「……だけど私には、何も……」
声にしてみて、はじめて自分がどこかでそれを信じ始めていることに気づく。
「ないと思っていたんだろ?」
ライルは微笑む。
「けれど、さっき、君の詩は空間を揺らした。
それは“鍵”だ。記録されない扉を開けるための」
「君の声は、これから必要になる。君自身のために。
そして、まだ目を閉じている誰かのためにも」
彼の言葉が、音よりも先に、胸に沁みてくる。
逃げられない。けれど、もう逃げたくもなかった。
「君が望むなら、案内する。俺たちの拠点へ。
そこで、君がこれから何を選ぶか、考えてくれていい」
私は、短く呼吸を整え、そして頷いた。
心の奥に、いつの間にかひとつの灯がともっている。
倉庫の裏手、閉ざされた扉を開くと、ひんやりとした地下道が口を開けた。
鉄の匂い、埃の香り、微かに濡れた空気。
足音を吸い込むような通路が、まっすぐに闇へと続いている。
無言で並びながら、私は歩き続けた。
都市の上では、きっとBUDDAが記録網を巡らせている。
だが、この場所は、まだ“記録されていない”。
それだけで、世界がほんの少し、自由になった気がした。
私は、知らない道を歩いている。
けれど、ここが“間違っていない”という直感があった。
誰かに決められた道ではない。
自分で、選んだ道。
たとえそれが、どれほど小さな決意でも。
「この先に、拠点がある」
ライルは立ち止まり、古びた端末に指を走らせながら言った。
「君が出会うべき人がいて、
君が投げかけるべき言葉が、まだそこにある」
私は頷いた。
まだ知らない私自身が、そこにいる気がした。
──同時刻、都市上層部。
「……波形、またズレたか」
レインは、監視端末を睨みつけた。
イオの感応データが、前例のない変動を示していた。
制御チップの応答遅延。神経同期率の異常値。
「KANONからのフィードバックは?」
「抑制信号を発信済。だが、感情波の増幅が止まらない」
彼は端末を切り、ひとつ息を吐いた。
まだ上層からは“未介入”の指示が出ている。
だが胸の奥が、ざわついて仕方がない。
“これは、逸脱か——それとも”
(第34話|終)
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